幸せになりたいけど 頑張りたくない

実家暮らしアラサー女のブログ。「言語化能力を鍛えるため」という大義名分で更新されるが中身はくだらない。たまにコスメ・映画レビュー。

記憶の中の「オリエント急行殺人事件」

公開されてからだいぶ日が経っているが「オリエント急行殺人事件」を観てきた。

小学生か中学生の時に読んだこの映画の原作は、その後の私の人生の行き先に深く関わっている。

そんな思い入れの深い作品を前日に予約したものの、交通機関の遅れのため映画館に着いたのは上映開始時間を20分以上過ぎてからだった。

もしかしたら序盤で後半に繋がる伏線があったかもしれない、そもそも私にとって大事なこの作品を途中から観ていいものだろうか、死ぬほど後悔することになるんじゃないかと映画館のロビーで5分ほど逡巡し、結局観ることにした(時間通り席に着いていた方々には申し訳ないことをした)。

 

容疑者全員にアリバイがある状況で、ポアロは消去法によって推理を進めていく。

当てはまらないものから一つずつ消していくこの消去法は、それまで私が読んでいた推理小説の、犯人に繋がる証拠や証言によって事件が解決する王道パターンとは違う道を辿っていて、非常に新鮮に映った。

こういうものごとの決め方があるのかと学んだ私は、何かを決めなければいけないけど決められない時、この方法を使おうと思った。

そしてその時は思っていたよりすぐやってきた。中学卒業後の進学先を、私は消去法で決めた。

 

私にとって「オリエント急行殺人事件」は消去法を教えてくれたいわば教科書であり、小説という枠におさめることができないほどのものだ。

そう記憶していたのだけど、映画では消去法の「しょ」の字も出てこなかった。

原作を読んだのは10年以上前だし、私の記憶が確かかと言われるとあまり自信がない。「消去法」を初めて聞いたのは数学の授業だったかもしれない。

原作を読み直してみなければそれはわからない。

けどもし違っていたらと考えると、この記憶のままでとどめておきたい気持ちの方が強い。

私には「自分の人生を自分で見つけたものによって進めてきた」という誇りがあって、それはこれまでの私を支えてきたしこれからの私にも必要なものだ。

それを崩したくないという気持ちと、真実を確かめたいという欲求の板挟みになるなんて思いもしなかった。

私にとって映画は、映像作品というより自分との関わりや価値観を再認識させてくれるツールとしての役割が強いのかもしれない。

 

終盤、ポアロが最初から事件の全貌を知っていたとしか思えない推理を披露している最中に思ったことは「期待しすぎて映画のチケットを無駄にしなくて良かった」だった。

映画版「オリエント急行殺人事件」は、登場人物が多いミステリー映画は推理以外の視点で観た方がいいという気づきをくれた。

こんなはずじゃなかったんだけどなぁ。