幸せになりたいけど 頑張りたくない

実家暮らしアラサー女のブログ。「言語化能力を鍛えるため」という大義名分で更新されるが中身はくだらない。たまにコスメ・映画レビュー。

花束みたいな恋をした

久しぶりに映画館で観る映画が、今をときめく人気俳優主演の恋愛物だなんて。

そう思いながらこの映画を観た人の大半は「サブカル好き」と分類される人間じゃないだろうか。流行りのものや誰もが知っているものには見向きもせず、人と違うものを愛で、そんな自分を愛でる。全員がそうではないだろうけど、少なくとも私はそうだった。

週に数回のペースで通っていた映画館に通わなくなり、好き好んで読んでいた小説が自己啓発書に変わり、CDを買ってライブに行くためにバイトしていた過去を持つ私も、いわゆる「サブカル好き」と分類される人間だった。人と違うものを愛でることで「ちょっと特別な人間」になれたような気分を味わっていた。もちろん「好き」という気持ちもあった。でもそんな気分を味わえるのはせいぜい大学を卒業するまでで、社会に出ればそんなものは「個性」とも呼べなかったと気づいた。

 

「花束みたいな恋をした」の主人公、麦(菅田将暉)と絹(有村架純)も、「サブカル好き」とくくっていいタイプだと思う。二人の会話に出てくる作家や小説は、おそらく「わかる人にはわかる」ものなのだろう、映画のDVDもマンガもCDも手に取らなくなって数年経つ私にはなじみがないものばかりだった。「人と違うものが好き」と自負する人間は、相手が話すにふさわしい人間かどうかテストする傾向がある(私調べ)。私は二人のテストに合格できなかったけれど、サブカル知識がなくても楽しめた。知識がなくても、本棚においてある本*1とか、二人がカラオケで歌う曲とかの設定や作り込みは凝っているのがわかるので、サブカル好きな人はなお楽しめると思う。

 

久々に映画館にまで行って観たのは、いくつか理由がある。一つ目は予告編の「脚本 坂元裕二」の文字を見た瞬間から気になっていたから。二つ目は好きなYouTuber、かいばしらさんが「今、この時代に生きている人のための映画」と紹介していたから。

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かいばしらさんの動画のおかげでタイトルの「花束」の意味がわかったといっても過言ではない。かいばしらさん、本当にありがとうございます。

三つ目は予告編を見ながら私が人生で一番幸せだと感じた時間を思い出したから。

 

※以下ネタバレしています。予告編を観れば結末は予想できるけど、一応。

 

 

 

映画を観ながら、気づけば麦に自分を重ねていた。「働きながらでも好きなことはできる」と働き始めたものの、毎日仕事でくたくたになって、気づけば好きなことなんてしなくなっていて、もう親指一本でできるパズドラしかやる気力がない。絹が圧迫面接を受けたと知った時「そんなことする人は、俺たちの好きな小説を読んでも何も感じない人だよ」と憤った。麦が仕事で頭を下げて回っていると知った絹は、全く同じ言葉をかけるも

「俺もだよ。俺ももう、何も感じない」

こう言った時の麦の表情が完全に死んでいて、「もしかしたら私も同じ顔をしているのかな」と不安になった。昔読んでいたマンガはいつの間にか読まなくなっていて、何巻まで出ているのか知らない。「一緒に遊ぼう」と買ったゲームも、いつしか仕事のジャマをする雑音でしかなくなっていた。絹と一緒に泣きながら読んだマンガすら、どんな話かおぼえていない。こうなりたかったわけじゃない。でもいつのまにかこうなっていた。そして気づいた時には戻れなくなっていた。

やりたくないことを「仕事だから」と割り切る麦に対して、絹はあまり変わっていないように見えた。働いて帰ってきたらマンガも読むし、ゲームもする。現実の厳しさを知りながらも「仕事」と「好きなこと」の折り合いをつけようと模索していた。たとえ麦に「だっさ」と言われても、「楽しく生きたい」から。

出会った頃の二人も「楽しく生きたい」と思っていて、自然にそうできていた。話したいことがたくさんあった。おそらく絹はずっとそうしていたかった。楽しい時間をずっと続けたかった。麦はハードルを下げてでも、やりたくないことをやってでも、絹と一緒にいたかった。この「一緒にいるだけではダメ」「一緒にいられればいい」というすれ違いが「ブルーバレンタイン*2を彷彿とさせて、いい意味で寒気がした。

理想のハードルを下げずに生きていけると信じていた、好きなことだけしていられた頃の二人だからできた恋だった。二人が別れを選んだのは、もう二度と経験できない時間を宝物として、自分の中に大事に大事にしまっておくためだったんじゃないかな。結婚していたら、一番幸せだった頃を思い出して「あの頃はあんなに幸せだったのに」と思ってしまうから。せめて思い出した時「楽しかったな」と幸せな気持ちになりたいから。

 

予告編とかいばしらさんの動画から、出会い→ラブラブ期→倦怠期→別れ、の流れで話が進むと思っていたので、最後の別れの場面で泣く気満々だった。でも私にとって一番キツかったのは序盤の、二人が出会って意気投合するくだりだった。はしゃぎながら話す二人を見て「人と話したいことも、共有したいほど好きなことも、私にはもうないなぁ」と自分の中が空っぽになっているのを感じた。

昔は好きなものも、人と話したいことも、たくさんあった。でも何について、どんなことを話したかったのか、思い出せない。あの頃のように何かを好きになることはもうないであろう私は、この映画のような時間は絶対に過ごせないし、麦と絹がお互いに感じた熱情を誰かに感じることもない。私が人生で一番幸せだと感じた時間にしか、もうない。

昔のことを思い出して「あの頃は良かったなぁ」なんて思うのは未練がましいしダサいけど、かけがえのない宝物として大事にしていいのかもしれない。生きていくのは基本的に辛いことで、報われないむなしさとみじめさを積み上げていくようなものだ。「あんなに幸せな時間があったんだから、これからもきっと楽しいことがあるはず!」なんて、脳内お花畑咲き乱れみたいなことは考えられないし、あの思い出だけを生きていく糧にできるほど私はロマンチストじゃない。でもあの頃の私は、誰もうらやましがらない人生の中でたった一度だけ、報われていた。そう思えて、なんでなのかわからないけど泣きそうになった。

*1:劇中出てきた「長嶋有漫画化計画」と「TOKYO NOBODY」には心のやわらかい場所をしめつけられた

*2:ラブラブ恋愛結婚した夫婦が離婚するまでを描いた映画。フィクションなのに「離婚ドキュメンタリー」といっても過言ではないぐらいの生々しさに「結婚願望を粉々に打ち砕かれる」「"結婚ホラー"という唯一無二のジャンルを確立した」と私の中で絶賛が止まない伝説のトラウマ映画