吉田修一原作、李相日監督の「悪人」は劇場で観ることができなかった。
興味はあったものの、当時の私にとって映画館に足を運ぶという行為はハードルが高かった。
公開終了してから数年後、DVDをレンタルして映画館に足を運ばなかったことを後悔した。
「悪人」には妻夫木聡、柄本明といった映画に疎い私でも知っている俳優が出ていたが、これまでに見たことのない顔をしていた。
「目の前にいる人に言葉にならないほどの感情を伝えようとする時、人の顔はこんなに変わるのか」と驚いた。
「次、李監督作が公開されたら、絶対劇場で観る」と誓った。
念願かなって公開初日(2016年9月17日)に観ることができたにも関わらず、こうして感想を書くのにずいぶん時間がかかったのは、ある暴力シーンによる無力感のためだ。
原作はフィクション、当然映画も作り物である。
しかし、この映画の登場人物と全く同じ暴力を受けた被害者が現実に存在しており、新たな被害者がいつ生まれてもおかしくないという意味では現在進行形のノンフィクションだ。
この暴力をなくそうと行動している人々もいる。
にも関わらず、暴力の根源は今も存在し続けている。
助けたいと思いながらも「どうせ変わらない」と諦め、助けるためのことは何もできず、ただただ凄惨な暴力を目の当たりにした無力感を、今も引きずっている。
あらすじ
都内で、ある夫婦が残忍に殺された。
現場には被害者の血で書かれた「怒」の文字。
容疑者・山神は逮捕されておらず、千葉・東京・沖縄にそれぞれ身元不詳の男が現れる。
千葉の漁港で「田代」と名乗る男が働き始め、東京に住む有馬はハッテン場で出会った「直人」と住むようになり、沖縄に引っ越して来たばかりの泉は「田中」と親しくなる。
犯人が誰かは終盤までわからないため、観客は田代・直人・田中を信じたいと願う愛子・有馬・辰哉に感情移入しながら観ることになる。
指名手配の顔写真が絶妙に作られており、松山ケンイチ・綾野剛・森山未來という決して似てはいない3人を重ねられる顔になっている。
信じることは難しい、と言われがちだがそれは「この人を信じよう/信じたい」と意識した場合に限定されると思う。
気づいたら相手のことを信じていたというのがほとんどではないだろうか。
信じていたことに気づくのは、相手に裏切られたり、相手が予想外の行動や発言をした時だ。
そして、信じている/信じていないの境界線は、自分の秘密=裸を相手に見せられるかどうかだと思う。
みっともない、格好悪くて恥ずかしい自分を見せているのだから、相手も裸になってくれているだろうと思い込む。
しかし、相手は裸に見える服を着ているかもしれない。
相手が本当に裸かどうかを確かめる術はなく、「相手も自分と同じように裸を見せてくれている」と信じるしかないのだ。
信じることはリスクが高い上に保証もない。
あらかじめ相手と自分の間に線を引いてしまえば、裏切られることも傷つくこともない。
けれど孤独は癒せない。
以下、少々のネタバレを含みます。
犯人や結末は明かさず、この感想を読んでから劇場に行っても楽しめるよう配慮して書いてます。
千葉 田代
千葉では親子間の信頼関係にスポットライトが当てられる。
生活を共にし、外部の人間の目には触れない短所も長所も知っている。
長い間一緒にいれば、自然とお互いに信頼が芽生えると思いがちだが、果たしてそうだろうか?
家族であれ親子であれ、心の底から理解し合えることは稀だ。
それなのに面と向かって言えない考えや不安は、案外伝わってしまう。
親であれば子を思い、心配するのは当然だ。
「よかれと思って」
善意が事態を明るい方に導くとは限らない。
背中で語る渡辺謙の演技を、是非劇場で観て欲しい。
東京 直人
東京で暮らす有馬は、誰が見ても理想的な人物だ。
都内の広いインテリアに凝った部屋に住み、ブランドものと一目で分かる上質なスーツを着こなし、自信にあふれいつも堂々としている。
ゲイパーティーに一緒に行ける仲間もいて、ルックスだって恵まれてる。
一見誰もが羨む人生を謳歌しているように見えるが、もう先が長くない母の横で出会い系サイトを閲覧するほどには孤独だ。
話は逸れるが、映画ではこういう表現をしてほしい。例えば、どこか洒落た飲食店でゲイ仲間に「俺もさみしい時あるよ」と言葉で有馬の孤独を表現されても「いやいやめっちゃ楽しそうじゃないですか」としか思えない。
言葉で主人公の状況や心情を説明する映画やドラマを見かける度、なぜ言葉を主体とした表現である小説や詩を選択しないのか疑問に思う。鑑賞者の読解力不足という背景もあるのかもしれないが、どんなにいいストーリーであっても、表現方法と媒体の不一致、小道具のリアリティのなさだけで冷めてしまう。
有馬のキッチンにあったケトルなんて劇中あってもなくても良い物だ。けどそこに北欧風デザインのケトルを置くだけで、センスが良く、持ち物にこだわる有馬の人物面を見せることができる。
言葉で言ってしまう方がわかりやすいし、より多くの人に伝わるだろう。けれど言葉以外の手段で説明可能な表現方法を選んでおきながら、言葉に頼ってしまうのはいかがなものかと最近よく思う。
有馬はハッテン場で直人と出会い、次第に心を開いていく。
休みとあらば外に出かけ常に刺激を求めていた有馬だったが、心許せる直人によって生活が変化していく。
そしてそれは有馬にとって幸福な生活でもあった。
しかし直人は身元不詳の他人だ。
いくら心を許したからといって、幸福と安全を天秤にかけないほど有馬は馬鹿じゃない。
その賢さが吉と出るか、凶と出るか。
沖縄 田中
沖縄に移住してきた高校生の泉は、現地の同じぐらいの年の男の子・辰哉と仲良くなる。
辰哉に連れて行ってもらった無人島・星の島探索中に、「田中」と名乗る男に会う。
転校や引越しなど、知り合いのいない土地に行かざるを得なかった経験がある人は、泉と自分を重ねるかもしれない。
知り合いが増えるにつれ、知らなかった土地に対しても安心感が芽生える。
田中はバックパッカーであり、いろんなところを旅してきたと言う。
高校生、自由に生きている大人への憧れが一番強い時期ではないだろうか。
憧れには、「自分の知らないことを知っている・きっとすごい経験をしている」という意味の「信頼」も含まれている。
底抜けに他人を信じられることが、眩しくて、うらやましくて、愚かだと笑いたくなるかもしれない。
徐々に深まっていくように見える3人の絆は、果たして何で結ばれているのか。