幸せになりたいけど 頑張りたくない

実家暮らしアラサー女のブログ。「言語化能力を鍛えるため」という大義名分で更新されるが中身はくだらない。たまにコスメ・映画レビュー。

2021.4/2 ときどき起こるアクセス数急上昇の謎

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記事を更新してないのにアクセス数が急に上がることがある。その理由を調べるためにグーグルアナリティクスに登録したものの、使い方がわからず使いこなせていないので、結局理由はわかっていない。まぁそもそも平時のアクセス数少なすぎだろ、って話なんだけど。

 

緊急事態宣言は明けたものの、変異ウイルスの感染率が上がってるみたいだし、特に用もなく都会に行くのもまだ気が引けるし散財しちゃうしで、自主的な外出自粛が続いている。

コロナ前から外出自粛してる私ですら、「外出たいなぁ」と思うようになったので、この頃はよく散歩をする。散歩をしていると道端に見たことない、名前も知らない花が咲いていることに気づく。今日も何枚か写真を撮った。しばらくブログにのっける写真に困らなそうだ。写真をうまく撮れるようになりたいと思うけど、だからといって高価なカメラを買ったり、勉強のために本を買ったりするのは気が引けるので、その程度なのだろう。スマホのカメラの進化はありがたい。

 

4月になったばかりの昨日、気になっていた新作コスメの予約販売がスタートしたので早速買ってしまった。買い物をした後に後悔するのがとにかく嫌で、買う前によ〜〜く考える私にしては即決だった。こないだも新しいコスメを買ったばかりなのに、よくそんなに買うなと自分でも呆れるけど、今はうきうきしているのでOK。「うきうき」って言葉、すごい春っぽい。

 

進撃の巨人」のアニメの次回は「今冬」だそうだ。今冬…いつだろう。

進撃の巨人」のおかげで一週間という時間の区切りを感じられていたので、時間の感覚がバグりそう。YouTubeで次回予告を見たら「リヴァイ兵長ふっ飛ばされたまま冬を越すのか」みたいなコメントがあって、今でも思い出してちょっと笑ってしまう。

一番好きなキャラはリヴァイ兵長で、もうぶっちぎり!誰も追随できない!と思ってたのにすごい勢いで好きなキャラランキングを駆け上がってきてるのがピークちゃん。

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進撃の巨人」アニメ公式サイトから

気だるげな雰囲気なのになぜか品があって、頭が良くて、圧倒的にかわいい。男ウケとか全く狙ってないのにモテる。すーごいモテる。すごい。かわいい。すごいかわいい。結婚しよう。

2021.3/29 手紙の返事を書かなければならない

花粉のせいか、肌の調子がいまいちである。外に出ないし人に会う予定もないから困ることはないのだけど、鏡を見る度不安になるので、やはり困る。

日曜日に散らかったままの机の上をやっと片付けた。ずっと前からどうにかしたいと思いながら何もしないでいたけど、朝目が覚めて、使わない物が積み重なっているのが気に入らなくて、勢いで片付けた。片付けるたび「今度こそ散らかさない」と心に誓うのだけど、数日経つと元に戻るのでもうあきらめている。その日は片付けにエネルギーを使い切ってしまったようで、予定していた勉強がちっとも進まなかった。でもスッキリ片付いた机の上を見ると「片付けて良かった」と清々しい気持ちになれるので、片付けて良かった。

ついでにずっと捨てられなかった物も捨てた。人からもらった物だ。くれた人とはもう会っていないし、これから会うこともないだろうけど、それでもチクリと胸が痛んだ。私は人からもらった物であっても大事にできない。好みじゃないから、他に使っている物があるから、と引き出しの奥深くにしまいこんで、結局捨ててしまう。くれた人自身も粗末に扱っている気がして後ろめたさが残るから、人から物をもらうのは苦手だ。私が食べ物や消耗品しか人にあげられないのは、この後ろめたさのせいだろう。

 

インスタでたまたま見かけた新作コスメがかわいすぎて、発売が待ちきれない。上にも書いたとおり、外に出ないし人に会う予定もないクセにやたらコスメを買っている。去年コスメ断捨離をした時「もう必要以上に買わない」と心に誓ったのに。私の誓いなんてそんなもんだ、さすがに知ってる。でも新作コスメの写真を見た日は一日上機嫌だったし、持っているコスメを眺めているととても満たされた気持ちになれる。コスメは今の私を幸せにしてくれる貴重なものの一つなので、まぁいっか、と思ってしまう私は多分甘い。

リモートワークなので化粧をする必要はないのだけど、それでもしようかなと思ってする日がある。化粧をすると気分が上がってやる気も出る。嫌いな自分の顔がかわいく見えるし、化粧品の組み合わせをアレコレ考えるのも楽しい。ほんとは今日もしたかったけど、眼精疲労がひどく仕事中に頻繁に目周りのマッサージをするので、やめておいた。明日はどうしようかな。

 

近いうちに映画「まともじゃないのは君も一緒」と「シン・エヴァンゲリオン劇場版」を観に行きたい。「まともじゃないのは〜」はいつでもいいけど、エヴァはシン劇場版のストーリーをほとんど忘れてしまっているので、復習してから観たい。できればTVアニメ→まごころを、君に→シン劇場版、の順で。けどアマゾンプライムは解約してしまったし、どうせ観るならプロジェクターを買って家でできるおよそ最高の環境で観たい。まぁそんなことしてもTVアニメの最終回も旧劇場版もちっとも理解できなかった私のことだから、今回のシン劇場版も理解できないだろうけど。あそこまで複雑になってしまうと、「理解したい」という気持ちより「終わりを見届けたい」という気持ちが勝る。というかそれしかできない。予告をYouTubeで見ていると、どこの誰か知らない人の解説動画もオススメに上がってくるけど、いいです、ああいうの一度も見たことないけど、お腹いっぱいです。こないだ「鬼滅の刃」の劇場版が日本映画の興行収入記録を塗り替えたって話題になってたけど、エヴァが塗り替えるんだろうなぁ。

「かわいい」乞食

教室に入ると、まず入口付近にいる子に軽く挨拶をする。「おはよー」と言うことによって、私が学校に来たことを周りに自然に知らせることができ、「とりあえず済ませるべきことは済ませた」というささやかな自信を持って学校生活を始められる。いわば教室への入場料だ。

私の通っている高校は生徒数が少なかったせいか、クラス全体で仲がよかった。一緒にお昼を食べるメンバーはなんとなく決まっているけど、ときどきメンバーが入れ替わることもめずらしくない。特別仲がいい子たちもいるけど、ペアを組むことになったら近くにいる子とそつなく組める。そんな人間関係の悩みが少ない、平和なクラスだった。校則もゆるく私服通学で、みんな好きな格好をして、髪を染めたい色に染めていた。

 

そんな平和なクラスの中で、私にはどうしても苦手な女の子がいた。マリナちゃん(仮名)だ。

枝毛が目立つ明るい色の髪

透ける安っぽい生地のトップス

パンツが見えそうなぐらい短いスカート

重ねづけして悪目立ちしているつけまつ毛

目の周りをぐりぐり囲んだ真っ黒のアイライン

わざとらしかったり主張が激しかったりするものが苦手な私には、マリナちゃんが毒があることを証明する警告色を身にまとった動物に見えた。私には「毒」に見えるものが、マリナちゃんには「蜜」に見えるらしい。マリナちゃんと好みが合わないことは一目でわかった。

好みが合わないだけで、髪も服もメイクも本人のやりたいようにやればいい。私がマリナちゃんを「装飾過多」と思っているように、マリナちゃんが私を「ダッサ」と思っていてもなんらおかしくない。マリナちゃんもそう思ったのかはわからないけど、私たちが二人で出かけたり、在学中も卒業後も連絡を取らなかったのはとても自然なことだった。でも私が彼女をそれとなく避けていた理由は、「好みが合わないから」だけではなかった。

 

「ネイル変えたの」

「髪の色、どうかな?」

「三つ編みに編んでみたんだ」

「この服、昨日買ったばかりなの」

マリナちゃんはいつも聞かれてもいない自分の事情を話して、周りの反応をうかがっていた。自分のことを「マリナ」と名前で呼んでいるのを初めて聞いた時は全身に鳥肌が立った。

高校生でまだ十代といえど、マリナちゃんが求めている言葉はなにか、すぐにわかった。女に生まれた以上、人生で一度は「かわいい」と言わなきゃいけなくなる場面に遭遇する。たとえ「かわいい」と思っていなくても。

わざとらしい舌っ足らずなしゃべり方で、首を傾げながらほめられたいポイントを口にするマリナちゃんを、私はちっとも「かわいい」と思えなかった。「ほめられたいならほめられるよう仕向けるんじゃなくて、思わず『かわいい!』って言わせるぐらいかわいくなれよ」といつも思っていた。

私には、彼女が他人に「かわいい」と言わせる技術ばかり磨いているように見えた。自分で自信をつける努力をするのではなく、他人から与えられる「かわいい」で自信のなさを穴埋めしようとするその姿勢は醜く、彼女が「かわいい」を乞う姿は痛々しかった。本当にかわいい子は何もしなくても「かわいい」と言われるもので、自分から何かしないと言われないということは、つまりそういうことだ。

 

「かわいい」という評価は不思議で残酷だ。「かわいい」に明確な基準はない。目が大きかったら、背が低かったら、色白だったら、必ず「かわいい」と評価されるわけじゃない。

それなのに多くの人が「かわいい」と思う人は、他の人が見てもやっぱり「かわいい」。明確な基準はないはずなのに「かわいい」と「かわいくない」の境界線を、なんとなく共有している。「かわいくない」と評価されることは、女の子にとって地獄行きに等しい。なぜなら「かわいい」は権力で、シード権で、免罪符だから。

そういった事実を並べてみても、私はあまり「かわいい」という言葉を信じられない。特に女の子からのそれは挨拶みたいなものだと思っている。私が教室に入ってとりあえず言う「おはよー」と重さは同じだ。そう言っておけば空気が悪くなることもないし、相手に悪い印象は与えないから、とりあえず「かわいい」と言う。その「かわいい」には「悪者になりたくないから」という気持ちしか含まれてない。

そう思っていながらも、「かわいい」と言われた瞬間はうれしいし、安心もする。けどそのうれしさと安心は、次の瞬間には消え去っている。他人から簡単に与えられた自信は長続きしない。だからマリナちゃんは毎日のように「かわいい」と言われたがっていたのかもしれない。

 

「かわいい」が飛び交う女の子の世界にいると、自分が言う「かわいい」はちゃんと相手に届いているのか、不安になる。本当に「かわいい」と思った時だけ言うようにしないと空っぽの「かわいい」しか言えなくなる、「かわいい」と思っている気持ちが誰にも届かなくなる。そんな気がして、私は「かわいい」と思った時だけ言うようにしていた。私がマリナちゃんに一度も「かわいい」と言わなかったのはそれを守るためだった、と言えば、少しは聞こえがいいだろうか。

「一回ぐらい『かわいい』って言った方がいいのかな」と思ったことは何回かある。女子特有の気遣いを身につけるチャンスととらえることもできた。けど相手の無言の求めに応じて「かわいい」と言ってしまったら、きっと何度も同じことを求められる。それを経験からわかっていたから、やっぱり言わなかった。言わなくて正解だったと今は思う。

 

関わりたくないのに彼女の言動を観察していたのは、たとえ自分から仕向けた形であっても、見てほしいところを見てもらって、言ってほしい言葉を言ってもらえる彼女がうらやましかったからだろう。けどそのうらやましさより「お世辞じゃなく、心からの『かわいい』が欲しい」という気持ちが勝った。それは今でも変わっていない。

私とマリナちゃんは好みも見た目も、何もかもが正反対だった。でも、何もしなくても「かわいい」と言われる容姿に恵まれず、常に「かわいい」と評価されることに飢えていて、その飢えが満たされることがない点は、とてもよく似ていた。

ブログ名変えました

「花束みたいな恋をした」を観に行く前、予告編をYouTubeで見まくったせいか同映画の考察動画が「おすすめ」に表示される。そりゃもうすごい表示される。YouTubeに「コイツこの映画に関する動画見るだろ」と認識されてるせいだと思うけど、他の映画に比べて考察動画が多い気がする。映画のカットを利用したサムネを見る度「他人の恋愛事情に首つっこみたがる人ってホントに多いな〜」としみじみ思う。二人が別れた理由とか、絹は浮気をしていたとか、なんやかんや、よくそんなにネタ思いつくなってぐらい多岐にわたっていて感心する。「恋バナ」にみんな食いついているのを見ると、自分に友達がいない・できない理由がよくわかる気がする。と言いつつ、私もこの映画の感想書いてるし、二人が別れた理由について考えたりしてるんだけどね☆

前置き終わり。

 

タイトルの通り、ブログ名変えました。忌野清志郎の「ラクに行こうぜ」の歌詞です。動画貼ろうと思ったけど公式チャンネルに動画ないみたいなんでやめときます。

この曲を知ったきっかけは確かアニメ「ちびまる子ちゃん」で、10年以上前のエンディングテーマだったと思う。初めてこの歌詞を聞いた時は爆笑して「幸せになりたいならがんばれよ!」とツッコんだ。この歌詞を聴いても全く笑えないどころか心の底から共感するようになるなんて思っていなかったあの頃の私、お前、幸せだな。

ブログ名と、ついでにニックネームもしれっと変えるのってなんか心境の変化がありそうだけど、全くない。何かあってほしいと思うぐらい純度100%の「なんとなく」です。無理やりきっかけをひねり出すなら、奮発して買ったkiriのクリームチーズが思いのほかおいしくて「幸せだ…」と久しぶりに思ったこと。アルファベットと漢字が並んでるニックネームってどうなんだろう、キモくないかな、と心配だったけど大丈夫だった。変換めんどくさいけど、こんな性格の私だからこれから誰かと交流することも私の記事がどこかに取り上げられることもないだろうから、問題ないでしょう。

2021.3/3 生まれてこなかったことにしたい

親に認められていない劣等感が強烈に襲ってきて「自分は本当に生きる価値がない人間だな」とまた死にたくなっている。今回ははっきりとした出来事があって、それが日付と結びついてるから細かく日数を数えられる。二週間ほどだ。体感時間では数ヶ月ってぐらい時間の進みが遅い。そしてこの苦しい時間がまだまだ続くと思うと体中から力が抜ける。

家の中にこもっていると気持ちがふさぎ込んでしまうので、ここ最近はよく散歩をするようになった。それでも気持ちがちっとも切り替わらないことがほとんどで、自分の価値のなさを再確認する場所が変わっただけだ。

この二週間は「仕事があって良かった」と心から思った。仕事をしている間はそんなことを考えずに仕事に集中していられるから、落ち込む時間を短くできる。仕事、ありがたい。いっそのこと24時間365日働いた方がいいのかもしれない。

こういう時は好きなことや夢中になれることをやるのが一番いいのだろう。しかし残念ながら私には好きなことも夢中になれることもない。そういうものが欲しくてこれまでお金をかけていろいろやってきたわりに、どれも続かなかった。そんな自分がまたクズに思えてますます死にたくなる。というより、生まれてこなかったことにしたい。

「誰にだって価値はある。自分の価値は自分で決める」みたいなことを言っている人を見かけるけど、そういう人はもれなくファンがいたり、確固たる社会的地位を築いていたりする人ばかりで「そりゃ自分でなんとかしなくても常に承認欲求満たしてくれる人がいますもんね」としか思えない。そんなことのたまってる暇あったら私のいいところ見つけて元気づけてくれよ。

結局自分のことは自分が一番大事にするしかないんだけど、それが一番難しい。自分でできないから他人に優しくされたいし受け入れられたい。「彼氏欲しい」とか「恋愛したい」とかの根源って結局これだと思う。こんな自分のことなんか大事にできるかよ。自分に価値なんか1円も見いだせねぇよ。

最近生命保険を変えた。加入してから3年以内の自殺には保険金はおりないらしい。返さなきゃいけないお金も残ってるし、だからあと3年は生きなきゃなぁと思ってるけど、もうどうでもいい気もしてる。親に迷惑かけるけど、そもそも私を産んだのが間違いだし、という気持ちもある。無条件で愛してくれないなら、期待通りに育たなかったってガッカリするなら、一番守ってほしい時に守ってくれないなら、味方になってくれないなら、生まれない方がよっぽど幸せだったよ。

花束みたいな恋をした

久しぶりに映画館で観る映画が、今をときめく人気俳優主演の恋愛物だなんて。

そう思いながらこの映画を観た人の大半は「サブカル好き」と分類される人間じゃないだろうか。流行りのものや誰もが知っているものには見向きもせず、人と違うものを愛で、そんな自分を愛でる。全員がそうではないだろうけど、少なくとも私はそうだった。

週に数回のペースで通っていた映画館に通わなくなり、好き好んで読んでいた小説が自己啓発書に変わり、CDを買ってライブに行くためにバイトしていた過去を持つ私も、いわゆる「サブカル好き」と分類される人間だった。人と違うものを愛でることで「ちょっと特別な人間」になれたような気分を味わっていた。もちろん「好き」という気持ちもあった。でもそんな気分を味わえるのはせいぜい大学を卒業するまでで、社会に出ればそんなものは「個性」とも呼べなかったと気づいた。

 

「花束みたいな恋をした」の主人公、麦(菅田将暉)と絹(有村架純)も、「サブカル好き」とくくっていいタイプだと思う。二人の会話に出てくる作家や小説は、おそらく「わかる人にはわかる」ものなのだろう、映画のDVDもマンガもCDも手に取らなくなって数年経つ私にはなじみがないものばかりだった。「人と違うものが好き」と自負する人間は、相手が話すにふさわしい人間かどうかテストする傾向がある(私調べ)。私は二人のテストに合格できなかったけれど、サブカル知識がなくても楽しめた。知識がなくても、本棚においてある本*1とか、二人がカラオケで歌う曲とかの設定や作り込みは凝っているのがわかるので、サブカル好きな人はなお楽しめると思う。

 

久々に映画館にまで行って観たのは、いくつか理由がある。一つ目は予告編の「脚本 坂元裕二」の文字を見た瞬間から気になっていたから。二つ目は好きなYouTuber、かいばしらさんが「今、この時代に生きている人のための映画」と紹介していたから。

www.youtube.com

かいばしらさんの動画のおかげでタイトルの「花束」の意味がわかったといっても過言ではない。かいばしらさん、本当にありがとうございます。

三つ目は予告編を見ながら私が人生で一番幸せだと感じた時間を思い出したから。

 

※以下ネタバレしています。予告編を観れば結末は予想できるけど、一応。

 

 

 

映画を観ながら、気づけば麦に自分を重ねていた。「働きながらでも好きなことはできる」と働き始めたものの、毎日仕事でくたくたになって、気づけば好きなことなんてしなくなっていて、もう親指一本でできるパズドラしかやる気力がない。絹が圧迫面接を受けたと知った時「そんなことする人は、俺たちの好きな小説を読んでも何も感じない人だよ」と憤った。麦が仕事で頭を下げて回っていると知った絹は、全く同じ言葉をかけるも

「俺もだよ。俺ももう、何も感じない」

こう言った時の麦の表情が完全に死んでいて、「もしかしたら私も同じ顔をしているのかな」と不安になった。昔読んでいたマンガはいつの間にか読まなくなっていて、何巻まで出ているのか知らない。「一緒に遊ぼう」と買ったゲームも、いつしか仕事のジャマをする雑音でしかなくなっていた。絹と一緒に泣きながら読んだマンガすら、どんな話かおぼえていない。こうなりたかったわけじゃない。でもいつのまにかこうなっていた。そして気づいた時には戻れなくなっていた。

やりたくないことを「仕事だから」と割り切る麦に対して、絹はあまり変わっていないように見えた。働いて帰ってきたらマンガも読むし、ゲームもする。現実の厳しさを知りながらも「仕事」と「好きなこと」の折り合いをつけようと模索していた。たとえ麦に「だっさ」と言われても、「楽しく生きたい」から。

出会った頃の二人も「楽しく生きたい」と思っていて、自然にそうできていた。話したいことがたくさんあった。おそらく絹はずっとそうしていたかった。楽しい時間をずっと続けたかった。麦はハードルを下げてでも、やりたくないことをやってでも、絹と一緒にいたかった。この「一緒にいるだけではダメ」「一緒にいられればいい」というすれ違いが「ブルーバレンタイン*2を彷彿とさせて、いい意味で寒気がした。

理想のハードルを下げずに生きていけると信じていた、好きなことだけしていられた頃の二人だからできた恋だった。二人が別れを選んだのは、もう二度と経験できない時間を宝物として、自分の中に大事に大事にしまっておくためだったんじゃないかな。結婚していたら、一番幸せだった頃を思い出して「あの頃はあんなに幸せだったのに」と思ってしまうから。せめて思い出した時「楽しかったな」と幸せな気持ちになりたいから。

 

予告編とかいばしらさんの動画から、出会い→ラブラブ期→倦怠期→別れ、の流れで話が進むと思っていたので、最後の別れの場面で泣く気満々だった。でも私にとって一番キツかったのは序盤の、二人が出会って意気投合するくだりだった。はしゃぎながら話す二人を見て「人と話したいことも、共有したいほど好きなことも、私にはもうないなぁ」と自分の中が空っぽになっているのを感じた。

昔は好きなものも、人と話したいことも、たくさんあった。でも何について、どんなことを話したかったのか、思い出せない。あの頃のように何かを好きになることはもうないであろう私は、この映画のような時間は絶対に過ごせないし、麦と絹がお互いに感じた熱情を誰かに感じることもない。私が人生で一番幸せだと感じた時間にしか、もうない。

昔のことを思い出して「あの頃は良かったなぁ」なんて思うのは未練がましいしダサいけど、かけがえのない宝物として大事にしていいのかもしれない。生きていくのは基本的に辛いことで、報われないむなしさとみじめさを積み上げていくようなものだ。「あんなに幸せな時間があったんだから、これからもきっと楽しいことがあるはず!」なんて、脳内お花畑咲き乱れみたいなことは考えられないし、あの思い出だけを生きていく糧にできるほど私はロマンチストじゃない。でもあの頃の私は、誰もうらやましがらない人生の中でたった一度だけ、報われていた。そう思えて、なんでなのかわからないけど泣きそうになった。

*1:劇中出てきた「長嶋有漫画化計画」と「TOKYO NOBODY」には心のやわらかい場所をしめつけられた

*2:ラブラブ恋愛結婚した夫婦が離婚するまでを描いた映画。フィクションなのに「離婚ドキュメンタリー」といっても過言ではないぐらいの生々しさに「結婚願望を粉々に打ち砕かれる」「"結婚ホラー"という唯一無二のジャンルを確立した」と私の中で絶賛が止まない伝説のトラウマ映画

2020.2/14 風が強くて昼過ぎに干した洗濯物も乾いた

用事を済ませるために外出した。ついでに家電量販店に寄って、プロジェクターと加湿器を見てきた。欲しい機種は置いてなかった。マッサージ機コーナーの前を通りがかったら、10台近く置いてあるマッサージチェアのほとんどにおじいさんおばあさんが座っていて、声を出して笑いそうになった。みんな目を閉じてリラックスしていて幸せそうで、それが余計におもしろかった。

 

晩ご飯は私が鍋焼きうどんをつくることになっていたので、帰りにスーパーに寄った。レジを打ってもらっている間、考え事をしてぼーっとしていたせいで「ありがとうございます」と言うのを忘れてしまった。カゴを持ってレジを離れたタイミングで、レジのお姉さんに「ありがとうございました」と言われて罪悪感を感じた。レジ打ちのバイト中、お客さんに「ありがとう」と言われるとうれしかったので、それから店員さんに言うようにしている。私がされてうれしいことを他の人もされてうれしいと思うとは限らないので、まぁ自己満足ではあるけど。

なんでこんな言い訳がましいことを考えているのか不思議に思って、あることを思い出した。ある人に「謝罪って自己満足だよね」と言われたことだ。その人はどういうつもりで言ったのか知らないし言われた場面もあまりおぼえていないけど、私が「こんなことがあって、相手に謝った」という話をした後に言われた気がする。あれはつまり、私に向けた「それは自己満足」という意味だったのだろうか? なんかムカついてきた。その人は周りの大体の人からよく思われていなかったけど、元気だろうか。嫌われていることに気づかず、愚かな振る舞いをして陰でみんなから笑われていますように、と性格の悪いことを願った。

 

帰ってきてからYouTubeを見た。かわいい人は化粧をしなくても何をやっていてもかわいいという現実を映像で見せつけられると、自分にはなんの価値もないような気がしてきて死にたくなる。なかなか人と自分を比べることをやめられない。そういえば見逃したドラマの最新話もまだ見ていない。動画を見るだけで1日つぶれそうだ。ひたすら受け身な休日。

それから机の上を少し片付けて、昔の日記を処分した。パラパラ見てみたら「恋愛したい」か「お金欲しい」くらいのことしか書かれていなくて「中身と進歩のない人間だな」と思った。90歳で死ぬとしたら、まだ人生3分の1しか終わってないのに、もういつ死んでもいい気がする。生きていくのはめんどくさい。

 

先日、久しぶりに映画館に行って映画を観た。感想をばーっと書いてみたけど、なんかカッコつけてるというか、キレイに書こうとしている気がして納得いかない。感想を書くのも久しぶりだったので書けるかどうか心配だったけど、思ったよりさらっと書けて安心した。なんだかんだ文章を書くのは好きだと思う。もっと有益なことを書けたらアクセス数と読者も増えるだろうし、本を出せるようになるかもしれないけど、あいにく私のしょぼい人生から得られる教訓なんてない。

この頃何かをやろうとすると「どうせ無理」「どうせすぐ諦めるから始めない方がマシ」と思う。「無理なんて思わないで、やってみよう!」と呼びかけている人や投稿をよく見かけるけど、私の場合は自分の性格をようやくわかった結果なので、どうしようもない。つまずいたり苦しかったり難しかったりすると、すぐ諦めてしまう。みんなどうやって苦しい時期や辛いことを乗り越えているんだろう。

 

動画に一区切りつけて、エンディング直前で止まっていたFFⅩをプレイした。こないだ苦戦したラスボス戦であっさり勝って、実にあっさりエンディングを見れた。10年ぐらい前に数回プレイしたことがあるけど、意外とおぼえていないもんだなと思った。ゲームが終わってしまうと、少しさみしい気持ちになる。新しいワールドが定期的にオンラインで販売される、永遠に遊べるゲームができたらいいのに。