ブリッジ(The Bridge)

自殺の有名スポット、ゴールデンゲート・ブリッジに1年間カメラを設置し、身投げを決行する人たちを捉えたドキュメンタリー。欄干を越えた後も躊躇するように佇む人、しばらく海を眺めた後欄干に立ちそのまま頭からダイブする人、様々である。時折のどかな日常風景(家族連れやスケッチをする人々など)が映し出されるが、背景に橋があるせいでどうしても死を意識させられる。

 

帰らぬ人となった人たちは、精神病を何年も患っていた人、「死にたい」と口癖のように言っていた人たちがほとんどだ。しかし「彼は自殺するタイプじゃないと思っていた」と証言されるような、人と関わるのが好きだった人もいる。

恐らく「自殺する/しないタイプに分かれる」という考えは誤りで、「誰にでも自殺をする可能性がある」と考えるべきだろう。 

 

生還を果たした人は「橋から手を離した瞬間、死にたくないと思った」と語っている。

彼は誰かに止められるのを避け、確実に死ぬため、欄干に手をかけそのまま頭からダイブしたという。もしその場面を見ていたら「よほど死にたかったのか」と思っただろう。しかし少しでも生還の可能性を上げるため、水面に落ちるまでのわずかな時間で彼は体勢を変え、足からダイブすることに成功した。

本物の自殺の瞬間はショッキングではある。しかし、その人の人生最後の瞬間を見たからといって、何を考えて自殺に至ったのか、最後の最後まで死を望んでいたのかまではわからないのだ。

 

ラストのエンドロールでは、2004年に橋から身投げした人の名前と日付が表示される。

死を悼むようで感動すら覚えるが、それはその人たちが私の知らない人だからであって、これが自分の知り合いや身内ならこんな感情には到底ならないだろう。死をロマンと結びつけられるのは、「死者が知らない人」というが前提が必要だ。

 

鑑賞中、中学時代の出来事を思い出した。

校舎の4階の窓から地面を友達となんとなく眺めていた時のことだ。

最初は自分たちがいる所と地面の高低差に恐怖を感じていたが、見慣れてくると「案外地面って近い気がする、落ちても大丈夫かも」なんて思えた。ちょうどそう思った時、友達も「なんかずっと見てると落ちても大丈夫な気がしてくるね」と言った。

自殺を思いついて行動に移すまでのプロセスも、これに近いんじゃないかと思う。

自殺を考えるきっかけは些細なことであっても、自殺についての思考が毎日繰り返されることで、自殺という行為が当たり前に感じられて、自分の死に対する感覚が麻痺してしまうんじゃないだろうか。慣れというのは怖いもので、死にも適用されるのだ。

  

この映画から「自殺は周りの人を悲しませるからよくない、やめよう」といったメッセージは感じられない。よく自殺について考えていた私はその点に好感を抱いた。自殺未遂といえるほどの行動を起こしたことはないし、私が常日頃と言ってもいいぐらい自殺を考えていたことを誰も知らない。自分が人生を終える瞬間を妄想していると安心さえした。

私の場合この映画に出てきた人たちのように、精神病を患っていたり失恋を経験したばかりだったり、親に愛されている実感がないというわけではない。ただただ面倒くさいのだ。

朝起きて身支度を整え食事をし、その後片付けをし仕事や予定に間に合うよう家を出る。

仕事先で大勢のよく知らない人たちと同じ室内で(学校も会社も私は大嫌いだ。息が詰まる)、突き詰めて考えればこんなことしなくても何とかなるんじゃないかと思える仕事に1日の時間を費やす。 

家に帰った後は食事をとり、食器と家事を片付ける。

清潔であるために風呂に入り髪を乾かし、明日に支障が出ないよう就寝する。

こんなことをあと何十年も続けていくと考えただけでクラクラしてしまう。特別やりたいことや会いたい人がいない私にとって、死は救いですらある。私のように死や人生の終わりに救いを見いだす人が、なにがなんでも生にしがみつきたくなるほどの希望を他者から与えられるなんて到底信じられない。自殺が個人の問題として片付けられがちなのは、どうやって生きるかが結局その人自身の意思によるところが大きいからではないのか。

他者に救われた経験はあるし、自殺志願者を止める術がないとは思わない。けどその中に「死にたい」という欲求を根本から変えるほど画期的なものが、果たしてあるだろうか。私がこう考えてしまうのは「現代の孤独を抱えているゆえ」の一言で片付けられるのかもしれない。