幸せになりたいけど 頑張りたくない

実家暮らしアラサー女のブログ。「言語化能力を鍛えるため」という大義名分で更新されるが中身はくだらない。たまにコスメ・映画レビュー。

「塞翁が馬」っていうし、ダメなおかげで助かることもあるかもね

先日から親に認められていない・信用されていないという劣等感にさいなまれ、落ち込んでいる。

 

昨日「死ぬ前にやっておきたいこと」を考えた。借金完済、PCとHD初期化、持ち物の処分といった、死んだ後の後始末をできるだけラクにするようなことしか思いつかなかった。でかい額の借金返済のめどがつき、完済のゴールが見えてきた今、よく考えるのは「どうしたら痛みや苦しみを感じずにラクに死ねるか」だが、そんなもの何年も前から探し続けているのに一向に見つからない。

ラクして生きていきたいから死ぬ時もできるだけラクに、なんて自分でもさすがだなと思ったけど、わざわざ苦しみながら死にたい人なんていないよな。

 

 

数日前、親戚の子どもが実家に遊びに来た。

子どもが得意でない私が見てもかわいい子で、一緒に遊んだ。

そんな私を見ていた父親が「ちょっとその言い方はないんじゃないか」と言ってきた。

その瞬間、自分が何を思ったか、体がどのように反応したのかは思い出せない。今その時のことを思い出すと真っ先に出てくるのは

「お前に言われたくねぇよクソジジイ」

という言葉だ。

 

父親が私のことを残念に思っていることは前から知っていた。

almostcinefil.hatenablog.com

 でもそう思うのも無理はないよなぁ、と思う。

何を始めても続けられなくて、当然結果も出せなくて、情熱とか志とか強い意志とかと無縁の、何もかもが平均以下の人間が私なのだ。エリートの父が「なんでもっとがんばらないんだ」と嘆くのもよくわかる。でも私は苦しいのも辛いのも努力するのも大嫌いで、この間から「がんばらない」をモットーに生きていくと決めたような、父とは正反対の人間なのだ。いくら親子ったってしょせん他人なんだから、あんま期待しないでほしい。あなたの血なんて大したことないんですよ。

 

ちょっと話がそれたけど、私の「お前に言われたくねぇよクソジジイ」の根にあるのは、「子育てに失敗したやつに子どもに対する態度をダメ出しされた、それって徹底的な否定じゃない? 私そんなにダメなの? そんなに何もできないやつなの?」というみじめさである。

とりあえずこのみじめさを解消したくてこの記事を書き始めた。私はいつも着地点や結論なんて考えずに書く。書いてるうちに何か答えが見つかるかなーなんて思ったけど全然見つかんないし、このみじめさはエイリアン並みに寄生能力高いから一生のお付き合いになるんだろなー、と思ったら先日買った本「あやうく一生懸命生きるところだった」にこんなことが書いてあった。

 

「自尊感が低い人たちは、自身を過大評価し、素晴らしい人間だという幻想を持っている。この幻想と現実のギャップが大きいほど、悩みも大きくなるのです。

 自分はこんなに立派なはずなのに、現実の自分は惨めで取り柄もなく、認められてもいない。こうして今の自分の姿に不満がつのり、次第に憎らしく、見るのも嫌になっていく。その究極が自ら命を絶つという悲劇につながる」 

あやうく一生懸命生きるところだった

あやうく一生懸命生きるところだった

 

 

自分が何で「死にたい」と思い続けているのか、キーボードを打ちながらよくわかった。この文の後には

幻想を捨て、ありのままの今の姿を認め、愛しなさい。自分はまあこのくらいの人間なのだ、それでも悪くないね、と

と続く。ありのままの自分を受け入れることが今の私には必要なのだろう。えー。まぁでもしょうがないか、これが私なんだもんな、ってこんな感じでいいのかな?

いろんな人の話を聞いたり、本を読んだりしたけど、自分を信じたり愛したりするのが大事らしい。でもさ、それが一番難しいんだよ。

もうめんどくさいから残りの人生ずっと寝てていいかな?