幸せになりたいけど 頑張りたくない

実家暮らしアラサー女のブログ。「言語化能力を鍛えるため」という大義名分で更新されるが中身はくだらない。たまにコスメ・映画レビュー。

女になれなかった私へ。強くなれるよ。

女性らしいものを身につけるのが苦手だった。

レース、ヒール、ワンピース、花柄、ピンク色、ルージュ、バングル、指輪。

挙げればキリがないけれど、その中でも揺れるピアスは最難関と言ってもいいほどだった。

女性らしさを感じる要素として、光る・透ける・揺れる、の3点が挙げられるそうだ。

女顔と男顔に区別するなら間違いなく男顔で愛想もない、服もジーンズにTシャツばかりの私が揺れるピアスをつけるといとも簡単に性別の壁を超えてオカマになる。そんな自分を二度と見たくなくて、もう手に取ることはないはずだった。

 

先日数年ぶりにピアスにハマって数点買った。売り場できらきら光りながら揺れるピアスを見て「つけたい」と思った。しかし顔立ちも大して変わっていない芋臭いままの私が女らしいピアスをつけたところで撃沈するのは目に見えていた。そこで髪型を変えることにした。頭部の主役が顔ではなくピアスになる髪型といえば耳が出るショートしかない。

実は一時期ベリーショートにしていた。もう10年以上前のことだけど、あごより短い長さが当たり前だった。当時は「髪を乾かすのが楽だから」と言っていた。実際楽だったし、美容やオシャレに時間とお金を取られたくなかった当時の私には合っていた。なにより女性らしく振る舞うことが、なんだか恥ずかしかった。

ごまかしがきかない髪型にすることに恐怖を感じたものの、それよりも「やってみたい」という気持ちが上回ってあっさり切ることにした。夏だし。

 

勝負は髪を切った後にやってきた。丸2日は正直後悔した。鏡の中の自分がどう見ても男なのだ。

以前よりスカートを履くようになったとはいえ、基本的にはジーンズが好きだし女性らしい色や柄の服なんて持っていない。大人のお姉様方が集まっているルミネに走った。今までは目にも留まらず無意識のうちに避けていた服、ベルト付きのワンピースや男物の服には使われていないだろう色のカーディガンを片っ端から試着し鏡の前で耳にピアスを当てまくった。

結果、髪を切る前より女性らしく、揺れるピアスが似合う私ができあがった。追い込まれた状況でこそ人は力を発揮する。我ながらあの芋臭さ全開の状態からよくここまでもってこれたと思う。

鏡の中の自分にスタンディングオベーションしながら、昔の自分が感じていた恥ずかしさの正体を見た気がした。当時は女らしく振る舞うことを恥ずかしいと思っていた。でも本当は、同年代なのに自分より大人びてきれいで女性らしく男に選ばれる女の子たちと並んだとき、自分が女として劣っていることが露呈しないよう、彼女たちと違うポーズを取ろうとしていたのだ、きっと。どうあがいても勝てそうにないなら、最初からリングに上がらなければいい。本気を出して負けたときのみじめさは、黒くて重くてへばりついて取れなくなる。

少し大人になった私は、自分と他人を比べることの無意味さを知った。うろ覚えだがネットで「自分と他人を比べるのはチーズケーキと牛丼を比べるのに等しい」と書いている人がいて「あぁそうそういい例え!」と思った。そのぐらい人は一人一人違うのだ。それを比べて落ち込むなんて愚の骨頂だと心から思う。

 

正直に言う。今の私はきれいでかわいい。

鏡を見るのが怖くなくなった。通勤中、電車の窓に映る自分を見て暗い気持ちになることもなくなった。

仕事から帰ってきてメイクを落とすとき、メイクの崩れ具合をチェックしながらまつ毛の長さと目の形、唇の厚さを見て満足した気持ちになる。

 

映画「ヘルタースケルター」にこんなセリフがあった。

 

「きれいだから、強くなれるんだよ」

 

劇場の座り心地のいい席にふんぞり返って「あぁ、女ってそういう生き物なのかもしれないな」と他人事のように思いながら「私もそうなりたい」という声を無視することはできなかった。映画を観たのは10年近く前だけど、今思うとこのセリフに導かれてここまで来た気もする。

自分を認められず、他人と比べることでしか自分も他人も測れず、試合放棄することで敗北と努力と現実の直視から逃げ続けていたあの頃の私を「今と一続きの過去の自分」として見つめられる今の私は、強い。