幸せになりたいけど 頑張りたくない

実家暮らしアラサー女のブログ。「言語化能力を鍛えるため」という大義名分で更新されるが中身はくだらない。たまにコスメ・映画レビュー。

「ゆとり」って「ムダ・無意味なものを楽しめる余裕」だと思うの

「がんばらない」と決めてから私が毎日やっていることといえば、

・ゲーム

二度寝

・昼寝

YouTubeの動画を見る

・たまーに読書

・ごくたまーに勉強

ぐらいになった。クズい。勉強にいたっては見栄を張って「ごくたまーに」なんてつけたけど、嘘だ。全くと言っていいほどしていない。

 

こんな日をおくるようになって、実は昔からゲームが好きだったと気づいた。

自分のことなのに「実は」なんてつけたのは、「ゲームをするのは良くないこと」と思っていたからだ。今もどこかで「時間をムダにするだけの無意味なこと」と思っている。だから「ゲームが好き」と言うのも思うのも、どこか後ろめたさがつきまとう。

こう思うようになった理由は、おそらく父親の影響だ。父親はゲームを「何一つ生み出さないムダなもの」と断罪し、我が家ではゲーム禁止だった。誕生日に「ゲームが欲しい」と言っても、決して買ってもらえなかった。話題の新作ゲームを発売日に買ってもらって、自宅の居間のテレビで堂々と同級生が遊んでいると知った時は衝撃だったし、うらやましくて仕方なかった。

「ゲームはムダ」理論はわからないでもない。ゲームをしているとあっという間に時間が過ぎるし、その時間を勉強なり読書なりにあてれば知識や教養が身につく、より有意義に過ごせるだろう。自分に子どもがいたら、ゲームをしている姿より本を読んでいる姿を見る方が安心できると容易に想像できる。

ただ「ムダ、無意味=悪」と切り捨てることは、どこか窮屈だと思う。

 

というのも、ここ数年の私はいわゆる「意識高い系」で、その時の毎日は今思うと息苦しく、全然楽しくなかったからだ。

目的と目標を明確にしてから物事に取り組み、人生計画を立てそれに沿った行動をし、それが狂えばいつ・どこで・何を誤ったのか明らかにし、同じ間違いを繰り返さないよう改善策を考え実行し、計画通りに人生を歩めているか定期的にチェックする。

これらが間違いだとは思わないし、この通りにできる人を素直に尊敬する。

 

私はこれらが一切できなかった。

 

自分で立てた計画を守れない自分にガッカリし、落ち込み、「やっぱりダメ」のレッテルを貼り続けた。

「より良い人生」を歩むために立てた計画が、自分をさらに嫌いにさせた。そもそも具体的な理想や目標がない私に「より良い人生」なんて言われてもね。

多分私は、ムダで無意味なものが大好きなのだ。

 

全くなんの意味もないバカ話

自分がしたこともする予定もないゲームの実況動画

値段すらつけられない誰にも見せない絵

その時自分の頭に浮かんだことを書き並べただけのブログ

無敵の自分が悪者を軽々倒す妄想

 

そんなことが大好きで、そこに意味なんて求めていない。

ただそれをしている時が楽しいから、それで充分満足する。

生産性や効率も大事だけど、ムダで無意味なことでしか味わえない楽しみの方が、私にとって大事なんだと思う。だからこの数年「楽しい」と思うことがなかったのだ。わかって良かった〜。

 

どうもここ最近、少し前の自分のような意識高い系の人や、自己啓発といったものへの嫌悪感と苦手意識が強くなってきて、どういうことなんだろうと考えたら以上のことがわかった。そら苦手になるわな。

自己啓発を否定はしないし間違ってるとも思わない。けど「あなたはできる。自分を過小評価しないで、信じて!」って言うのって、セミナーなり教材なりを買わせようとする場面で聞くな〜と思うので、信じられなくなった。そんなうさんくさいところに顔出す私も私なんだけどネ。

 

あつ森日記もつけようかと思ったけど、これはこれで一つの記事として独立させたいので、後で更新するか、今日はナシにしよう。