幸せになりたいけど 頑張りたくない

実家暮らしアラサー女のブログ。「言語化能力を鍛えるため」という大義名分で更新されるが中身はくだらない。たまにコスメ・映画レビュー。

働かずに生きていけたらな

テレビをつけると不安をあおるような新型コロナウイルス関連のニュースばかりなので、あまり見ないようにしていた。

それでも習慣で、朝起きると反射的にリモコンのボタンをテレビに向かって押してしまう。そして今日、緊急事態宣言から二週間が経過したと知った。てっきり1か月は経っていると思っていた。引きこもりの私でさえこんな調子なのだから、人と会ったり話したりすることが日常に組み込まれている人にとってはさぞかし地獄だっただろう。

 

この二週間、職場には行っていないし電車にも乗っていない。昨日散歩で駅の近くまで行った時聞いた踏切の音とアナウンスは、二週間ぶりだったということになる。こんなことはここ数年で初めてだ。

小学校の時ピアノを習っていた私は、一週間に一回電車に乗って教室に通ったし、高校は電車を乗り継いで通わなければならないところに進学した。中学は近所だったため電車に乗る機会は少なかったが、私の生活と電車は切っても切り離せない関係だった。

踏切の向こうを走る電車内を見た。平日の昼間とはいえ、いつもなら考えられないほど人は少なく、ぽつぽつと間隔を空けて座っていた。窓は開けられていて、これなら思っていたほど電車に乗るリスクは低そうだと思ったものの、そうまでしてこなす用事はちょっと思いつかない。

 

今日は朝起きた時からなんとなく気分が優れなかった。もしかしたら昨日の夜からかもしれない。気乗りしない仕事が待っているのがわかっていたからだ。しかも報酬は割に合わない少額。このクライアントとの付き合いがこれっきりになるなら、涙も出ない。

午前中はもっと込み入った作業をする予定だったのだが、やりたくない仕事がつかえているとどんよりした気持ちが他の作業に集中させないことを知っていたので、急遽予定を変更して朝から取り組んだ。先ほどなんとか形になった。これで今日もなんとか眠れそうだ。

その気乗りしない仕事のせいか、今日はやけにイライラしていた。文章でスムーズにやりとりできないことは、私にとって一瞬で沸点に達しかねないほどストレスだ。どうして「目標」を聞いているのに「現状」を答えたり、こちらの質問をまるっと無視したりするのだろう。こういう「情報を読み取れない・読み取ろうとしない人」を私は「バカ」と定義しているのだけど、こういう人は意外と多いらしい。SNSが普及して文章でコミュニケーションをとる機会は増えたはずだし私より活用しているだろうに、なんでこうなるのか。

 

気乗りしない仕事とイライラから逃れるように、昼食をとって散歩に出た。景色のいい河原を歩きたかったが、外の空気が恋しいのだろう人が大勢いたので、仕方なく川沿いの歩道を歩いた。ふと近所に行ったことのないスーパーがあることを思い出す。そういえば昨日からアイスが食べたいと思っていた気がする。スマホとカギだけ持って出たので、現金は持っていない。QRコード決済に対応しているといいが。そう思いながらずんずん歩く。

散歩をすることで、昨日と同じように気分が晴れることを期待したが、いっこうにイライラは止まない。ときどき立ち止まって、クライアントから返事が来ているか確認する。クライアントのシステムへの最終ログイン時間が数分前なのに返事が来ていないことにまたイライラが募る。なんだか今日はムダに体力と気力を消耗しそうだ。

 

「気分が晴れない時は、歩けばなんとかなる」という思い込みは、10年前、失恋した時にすりこまれたものだ。当時駅までバスで20分ほどかかる学校に通っていた私は、失恋後、学校からの帰り道を毎日歩いて帰った。1時間はかかったと思う。

好きだった相手とよくそうやって一緒に帰っていたから。

その帰り道を一人で歩いて帰って傷をえぐれば、それだけ早く回復できると思った。

バスの座席に座って揺られていると、相手のことを思い出して辛かった。

体を動かして失恋から気をそらしたかった。

どうしてそんなことをしたのか、自分でも理由がはっきりしない。ただ、そうやって必要以上に歩くことで早く回復できた気はする。もちろん真相なんてわからないけど。でも歩くことがなんらかの治療となるのなら、私は今自分の何を癒やそうとしているのだろう。

 

スーパーへの道の途中、左目に違和感を感じる。虫でも入ったか、そういえばこの時期は気をつけないと、なぜかちょうど顔の高さで飛んでいる羽虫の大群に突っ込んでしまうことがある。違和感が鋭利なかゆさと眼球を刺すような刺激に変わったところで立ち止まる。スマホの背面、鏡面になっているりんごマークに左目を写すが、何も見えない。かゆさに勝てず目をかいて、もう一度見る。まぶたを上に引っ張ると、目頭に長いまつ毛があった。私の数少ない自慢できるもの、長くて濃くてふさふさのまつ毛。こういうことはよくある。取れたばかりのまつ毛を指の上にのせてなんとなく見てみる。やっぱり長いな、と思う。短いよりは長い方がいいのだろうが、だからといってモテるわけでも特別目が大きく見えるわけでもなしで、私のまつ毛に対する誇りは昔に比べて薄れている。

スーパーの入り口に置かれているアルコール消毒液で手を消毒し、アイスの棚へ向かう。アルコールで手を消毒すると、手が異様にかさつく気がする。スーパーやドラッグストアの店員が手荒れに悩んでいるとなにかで見た。

食べたかったアイスはあったものの、店員に「QRコード決済には対応していない」と言われたので、あきらめて店を出る。家までの道の途中にあるコンビニをのぞいてみたが、こちらには食べたいアイスがなかった。ツイてない。でもどうしても食べたかったわけじゃないから、それほど落胆はしない。私の欲望や情熱は求めているものが手に入らない時、一番燃えさかる。あと少しで手に入りそう、となると途端にしょうもないものに見え、メラメラと私をかきたてていた興味と興奮と欲望が嘘のように一瞬でしぼむ。また10年前の失恋を思い出す。あの時も相手のことが好きで好きでしょうがないと思っていたが、いざ付き合えそうになった途端、私から逃げた。そしてあとで死ぬほど後悔した。自分の望みより「釣った魚にえさはやらない」理論の方がずっとわかる。

 

家が近づいてきても、仕事をする気は起きなかった。やっぱりこの仕事向いてないのかもな、最初からやめとけば良かったかな。軽く後悔しながらも歩く速さはゆるめない。

今は何も植えられていない畑の水たまりに、アメンボが数匹いることに気づく。アメンボ、数が少なくなったと聞いたけど、まだいたんだ。存在を認識するのは小学生以来の気がする。アメンボが水を蹴って移動する様子、アメンボの近くを飛ぶ小さな羽虫と、風が起こす淡い水の波紋をしゃがんで眺めた。そういえば「あつまれ どうぶつの森」を欲しいと思っていた理由は、こんな時間が欲しかったからだと思い出す。

お金にならないし必要なことでもないけれど、心に余裕をもたらしてくれるような、そんなこと。虫を見たり風に当たったりただぼうっとしたり、ゲームの中の世界でならできるかもと思って、でも結局はプログラムの域を出ないからすぐに飽きて金のムダになるだろうと、うだうだ二の足を踏み続けて買う決心はまだついていない。先日抽選に応募したが、きっと当たらないだろう。それでいい。あとでどうしても欲しくなった時後悔しないために応募したようなものだから。

アメンボを見ながら、この二週間で自分についていろいろわかったとふと気づく。

 

読書と文章を書くことと調べものが好きで、外に出なければ化粧品も服も大して必要ないこと

物語が好きで、生きていくうえで恐らく欠かせないものであろうこと

どんな美容院に行ったって大して変わらないだろうこと

今みたいな生活を続ければお金はそれほど必要ないこと

人は何を求めているのか、人がものを求める仕組みや仕掛けに興味があること

友達も恋人もいらないこと

SNSが根本的に好きになれないこと

時間に余裕がある時は自炊も皿洗いも苦じゃないこと

規則正しい生活をおくるのはそれほど難しくないこと

出かけない日でも寝間着のままで一日過ごすのは気持ち悪いから、着替えた方が一日気持ち良く過ごせること

散歩すると気分転換になること

ほとんど信仰の対象に近かった父への尊敬が薄れてきていること

人目を気にしなくなって初めて自分の気持ちに気づけること

今私が一番したいことは、多分「何もしない」であること

ただただ心穏やかに暮らしていきたいと思っていること

 

他にもあった気がする。家に帰って何も考えずのんびり本でも読めたらいいけど、仕事が待っている。約束したのだし、もうお金を受け取ってしまったのだから、やるしかない。

曲げていたひざを伸ばし、まだ眺めていたいアメンボから視線を外して歩き出す。

今日の散歩は結局、徒労に終わった。