トイレの手拭きタオルを取り替える度、この家の住人の衛生観念を疑う。私がいないとき、一体どれくらいの時間使いかけのタオルがかけられたままだったのか、考えていると背筋を虫が這うような感触を覚えて思考を打ち切る。この家の住人は私を「潔癖」と言うけれど、およそ世間の感覚と近いのは私だ、この家がおかしいのだ、とその度思う。
タオルを洗濯かごに投げ入れる。ついでに洗面所の鏡を見る。起き抜けなのに前髪がいい具合に束になっていて、何もしていないのに自分を褒めたくなる。けれど、せっかく上がった気分を元に戻すかのように、今日は山辺さんも出勤だったことを思い出す。
山辺さんは恐らく40代の女性で、私と同じ職場で働いている。安っぽい色と素材の服の上からでもわかるぐらい、二の腕と腹回りにたっぷりと脂肪をまとわせた、「オバさん体型」と一言で説明がつく体型をしている。なぜかいつも鼻声で、語尾を伸ばすクセがある。それがぶりっ子をしているようで、聞いているだけで痛々しい気持ちになる。難しかったり手間がかかったりする仕事をそれとなく避け、つまらないミスを連発する山辺さんが、私は苦手だ。もちろん「山辺」は仮名だ。
山辺さんは現在独身で、恐らく生涯独り身だろう。「結婚してるかどうかとその人の魅力は関係ない」と思っていたはずが、山辺さんが独身だと聞いた時「やっぱり」と思った。そんな自分の矮小さに苛立ちと失望と情けなさを感じて、なぜか山辺さんを疎ましく思う気持ちが増幅される。山辺さんのような女性にだけはなりたくない、絶対ならない、と思いながら、どこかでそうなるかもしれないという恐怖も抱えている。「モテない」という点では、私も山辺さんも大差ないのだ。
女性らしい格好に抵抗がなくなり、服やアクセサリーなどガラッと変えた。周りからも比較的好評な意見をいただく。それでも私はモテないし、男っ気のなさも相変わらずだ。「見た目を変えればそういった面も変わるのではないか」という淡い期待は見事に打ち砕かれた。これ以上何をやっても大して変わらない気がして、あんなに楽しかったメイクが今は全然楽しくない。努力しても求めていた結果は得られない、そんな記憶ばかり蓄積されて「努力」という言葉がますます嫌いになる。
そもそも私はどうしてキレイになりたいのだろう?この頃よく考える。
自分を好きになりたいから、女に生まれた喜びを享受したいから、キレイな女の人に憧れているから、一通りのことを済ませてきた大人の女性に見られたいから、とびきりの美人は無理でもせめて「普通」になりたいから
結局のところ、自分の恋愛経験のなさを「キレイ」という分厚いベールで覆うことによって、「一般的な女性」になろうとしているにすぎない。なんて後ろ向きな理由。見た目をいくら磨いても、自分を認められない暗さと、他人と深く関わってこなかった幼稚さは、わかる人にはわかる。
じゃあ、どうして私は恋愛経験がないことをこれほどまでに恥じているのか?
恋愛経験がない・モテない=人として魅力がないことの証だから、恋愛経験がない人は総じてイケてないしなんか暗いから、やるべき努力を怠ってきたから、女としての需要がないから、みじめだから
「同族嫌悪」という言葉がピッタリはまる。自分を棚に上げて、同じように経験がない人を徹底的に見下している。だから私は山辺さんが苦手なのだ。
どうしたら恋愛経験がない人を見下さなくなるだろう?
自問自答は得意なはずなのに、答えが一つも浮かばない。
適当に薄めのメイクをしながら、山辺さんはいつも同じ色の口紅をつけていることを思い出す。1本しか口紅を持っていないのだろうか?自分に似合うメイクとか服を研究したことはないのだろうか?ダイエットをしようと思ったことはないのか?それとも過去に失敗してもう諦めたのか?自分の行く末をどう思っているのか?
苦手なはずなのに、山辺さんについての考えが次から次へとあふれてくる。山辺さんをできるだけ視界に入れまいとしているくせに、頭の中は山辺さんについての疑問でいっぱいだ。
山辺さんについて考えることと、今の自分の未来について考えることは似ている。
このまま年を取れば私も山辺さんと大差ないオバさんになる。男っ気のない、見るからにモテないオバさん。そんなオバさんを好きになれたら、私の未来は明るくなるだろうか。結局自分本位な考えから抜け出せない自分を好きになるのは、山辺さんを好きになるより難しい。