幸せになりたいけど 頑張りたくない

実家暮らしアラサー女のブログ。「言語化能力を鍛えるため」という大義名分で更新されるが中身はくだらない。たまにコスメ・映画レビュー。

奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール

今年の目標を設定し達成するために計画表を作成したりさらに月ごとのタスク管理表も作成したりそれをちょくちょく片付けたりと現実的なことばかり考えていたので、かわいい水原希子を見てウハウハするかと思って観てみたらとんでもない、一人の男が大人になるための試練に耐える姿を見て、若くて青くてダサかった頃の自分がまぶしくてうらやましくなってしまった。

ある映画を別の映画に例えるのは個人的にどうかと思うのだけど、この映画は「ラブコメの皮をかぶった『大人は判ってくれない』」というのが一番しっくりくる。

 

※以下ネタバレあり

 

 

 

人を表す言葉として「大人」がある。「大人だね」「大人っぽいね」と言われてまぁ悪い気はしないというのが大半ではないだろうか。

だが「大人」の定義は人それぞれだ。経済的に自立している、二十歳以上、冷蔵庫にあるもので適当にご飯が作れる、無難な人間関係を築ける…恐らく人の数だけ答えがある。

この映画はそんな「大人」の明確な定義を一つ示している。

「自分にできる範囲内で理想と現実をすり合わせられる人」

「自分にできる範囲」、つまり「自分の力量を知る」という、大人になるためのプロセスを恋愛を通して描いている。

 

主人公の雑誌編集者・コーロキはタイトルにある通り、奥田民生のような余裕のあるカッコイイ男を目指している。ジーパンにラーメンの汁の染みをつけてMステに出ちゃうのがカッコイイ、らしい。彼のファッションからもその目指す姿を読み取ることができる。立ち食い蕎麦を愛する彼は異動先のライフスタイル誌編集部のおしゃれな雰囲気に気後れするが、仕事で出会った天海あかりに一目惚れ。見事付き合うことになるも、彼女に振り回されっぱなしの姿は奥田民生とはほど遠い。

天海あかりは人の心をつかむ天才だ。相手が求めているものを瞬時に察知し相手の欲求にこたえられる才能がすば抜けている。相手が男なら「理想の女」、女なら「女子会の女王」になれる。それを「自分がない」とバカにするなかれ、誰しもそういうことをしているのだ。学校、家、職場…与えられた役割に自分を合わせる社交性は現代社会を生き抜く上で欠かせないスキルだ。「大人になる」とはそうした社交性を身につけることでもある。

こう書くとあかりが芯のない女性のようだが、彼女は嘘を一つもついていない。あかりは、男に言った思わせぶりな言葉について「そう言ったら喜ぶだろうなぁと思って。嘘じゃないよ、その時は本当にそう思ってたんだもん」と言う。相手を好きという気持ちに嘘はなかった。この役を水原希子が演じているのがおもしろい。水原希子は「自分らしく」を発信し体現している。一見「自分」を持っていないように見えて自分の気持ちに嘘をついていないあかりと通じるものがある。

終盤、あかりが複数の男と関係を持っていたことが暴露され、コーロキは混乱する。どの男に見せていたあかりが本当のあかりなんだ?

「コーロキさんが思うわたしが、わたしだよ」

 

コーロキが思うあかりなんてコーロキの頭の中にしか存在しない。どこまでも「理想の女」であり続けるあかりは「コーロキさんは、もう大丈夫だよ」と言ってキスをする。

このキスシーンは、あかりとコーロキが初めて結ばれたシーンとだぶる。流れている音楽まで同じ。結局コーロキはあかりと出会った日と変わらず、あかりのことをなに一つ理解できていない。理想の男・奥田民生、理想の女・あかりを追い求めてきたコーロキは自分が奥田民生になれないこと、あかり=理想の女が存在しないことを思い知る。あかりと関係を持った他の男と違って、コーロキは現実を受け入れたのだ。コーロキが現実を知るこの場面は「大人は判ってくれない」のラストでアントワーヌが海に直面するシーンを彷彿とさせる(意識したのかはわからないが、この直後コーロキは水の中に突き落とされるし、エンドロールでは東京湾でもがいている)。

 

余談だが「理想の女」について世の女性の意見をまとめ、男性を震え上がらせる傑作へと昇華させたのが「ゴーン・ガール」だ。「理想の女」という言葉に引っかかった方はぜひご覧いただきたい。

 

3年後、コーロキは自分に似合うファッションをし、初対面の女の子のハートをつかみ、おしゃれな雰囲気に溶け込めるスマートで仕事のできる男になっていた。理想としていた姿ではないけれど、理想と現実のギャップを知り受け入れたからこそ得られた姿だ。彼はあかりと出会い、大人になった。事情により本名の「コーロキ」を名乗らず「案野」という仮名を名乗ることからも明らかなように、皮を一枚かぶっている。

立ち食い蕎麦屋が似合わなくなったものの、やはり好きなのか立ち食い蕎麦屋へと入るコーロキ。ふと前を見ると3年前の自分がうまそうに蕎麦をすすっている。釘付けになる案野、箸の間から天ぷらが落ち、汁が飛んで高そうなジャケットの袖に染みとなって広がる。ジーパンに染みがあっても構わずテレビに出られる男になりたかったのに、ジャケットについた小さな染みに「案野」という大人の皮をはがされるようで、結局なにも変わっていないことを思い知らされる。

コーロキと案野、どちらが大人かなんて聞くまでもない。案野にできてコーロキにできないことなんてゴマンとあるだろう。だがコーロキにできて案野にできないことが一つだけある。理想をまっすぐ追い求め、もがくことだ。エンドロール、東京湾らしきところでもがくコーロキを映すカメラが水中に潜るとなにも映らない。白鳥と真逆だ。その姿は不器用で、滑稽で、がむしゃらなのに思い通りの結果を出せない「若さ」の象徴だ。バックで流れる奥田民生の「CUSTOM」の歌詞がまた泣かせる。

 

伝えたい事が そりゃ僕にだってあるんだ
ただ笑ってるけれど
伝えたい事は 言葉にしたくはないんだ
そしたらどうしたらいいのさ
 
誰か 誰か 見てて くれないか
誰か 誰か 聞いて くれないか
 
届いてる? 

 

理想の大人になりたいともがいていた頃と、理想とはほど遠い大人になった後でこの歌の意味は変わるんだろうか。理想をまっすぐ追い求めていた頃のことを私はもう思い出せない。けれど、この歌を聴いてずっとほったらかしにしていたもどかしさ、さびしさ、自分の至らなさとそれに対する悔しさ、焦りが無視できないほどにむくむくと大きくなったことを覚えている。なんてことない言葉でつづられた歌詞に共感することで、自分の未熟さときっと埋められることはない理想と現実のギャップに気付かされるのは不思議と心地よくて、でも憧れがあまりに遠いから心細くて、だから私はこの歌を聴く度、初めて聴いたときからそうだったように泣きそうになるのだ。

いつか私が案野のように、大人の皮をかぶって社会に溶け込めるようになっても泣きそうになるんだろうか。