幸せになりたいけど 頑張りたくない

実家暮らしアラサー女のブログ。「言語化能力を鍛えるため」という大義名分で更新されるが中身はくだらない。たまにコスメ・映画レビュー。

「仕事」に対する異常な厳しさと、それに対する違和感

「完璧な人間なんていない」なんて面と向かって誰かに言ったら、9割以上の確率で「そんなこと知ってるよ」と言われるだろう。

そのぐらい「人間は不完全な生き物」という事実は浸透しているのに、なぜか仕事となった途端完璧を求められる。

もちろん仕事の対価として金銭をもらうわけだから、きちんとやるのは当たり前だ。

けど仕事と対価のバランスがとても取れているとは思えないので、ちょっとここで吐き出す。

 

恐らくこの記事を読んで「コイツ仕事なめてるな」と思われたり、自分の仕事を否定されているようで不快な思いをする方もいらっしゃると思う。

少しでもそう思いそうな方は読まないでほしい。

と言いながら、社会の底辺を漂う負け組(アラサーフリーター)の戯れ言なので別になんの影響力もないと思う。

私がこの記事で言いたいのは、仕事をする上で求められるものと、得られるもの・失うもののバランスがあまりに崩れていることである。

決して仕事というものをなめているわけでも、誰かを傷つけたり不快な思いをさせようとして書いているのではない。

 

・仕事という大義名分はどこまで許されるのか?

・本当に必要な職業

・求められる能力と得られるもの/失うもののバランス

・理想的な世界

・それでも働く理由

 

・仕事という大義名分はどこまで許されるのか?

かなり前から時短アイテムが人気だ。

仕事で忙しくて時間が取れないから、仕事以外の時間を短くしよう!という発想はいいとして、中にはそこまでして仕事を優先しなきゃいけないのか?と思うこともある。

例えばお風呂。

仕事で疲れた体を癒す時間を短くし、翌日の仕事に備える…このサイクルに私はどうしても首を傾げてしまう。

食事もそうだ。

仕事から帰ってきて自炊する時間も体力もないから、スーパーの総菜や外食で済ませる。

本来ならもっと安く済ませられた食事代を、仕事で稼いだお金で払うのだ。

正社員として働いていた頃の私にとって、マッサージ代がこれにあたる。

デスクワークなのでどうしても肩と首が凝り、毎週末マッサージに通っていた。

決して充分ではないお給料からマッサージの回数券代を払う度、「このお金の使い方って、なんか違うよなぁ」と思ってはいたものの、突き詰めてものを考えることに使えるほど体力は余っていなかった。

平日は肩と首をバキバキに凝らせ、週末だけにマッサージしてもらってもどうせ次の日にはバキバキに凝るのだ。

こんな馬鹿馬鹿しいループもお金の使い方も、もう二度と経験したくない。

私の場合、どうひっくり返ったって生活>>>>>仕事であって、仕事をバリバリこなすより日々の生活を丁寧におくりたい。

「仕事だから」という理由で大抵のことが許されちゃうのも、なんだかなぁ。

「仕事ならしょうがないね」という風潮が「仕事を最優先しろ」という無言の圧力に化けてしまった、と思う。

 

・本当に必要な職業

そもそも私が仕事より生活を絶対優先させる理由として、「世の中本当に必要な職業って、ほんの数種類じゃないか?」と思っているからである。

今の私がしているアルバイト含め、なくなって世の中が回らなくなる仕事なんてほとんどないと思う。

ほんの少しのミスが人命に関わったり、人々の生活がダウンしてしまう仕事も限られている。

だがそれ以外の、人命や生活に直接影響を与えない仕事で些細なミスをする人に対して、他の仕事人は異常に厳しい。

そりゃあ同じミスを短期間で繰り返したり、言われたばかりのことを忘れていたりというのは問題があるし、イライラするのもわかる。

けどほんのちょっとしたミスなら、もう少しゆるく許してもいいんじゃないかなと思う場面をよく見かける。

冒頭でも述べたように、仕事はきちんとこなすべき、そうして当たり前なのだけど、それを理由にそこまで厳しくする必要性を感じられないのだ。

 

・求められる能力と得られるもの/失うもののバランス

冒頭の繰り返しになるが、 人間は完璧ではない。

そのことはよくわかっているはずなのに職場に着いた途端、完璧を求められる。

一度言われたことは全て覚え、言われた通りに業務をこなし、周りを見て必要であれば先回りしておく気遣いは最早社会人のマナーとして必要最低限の能力になっている。

これだけの働きぶりをフルタイムで求められ、得られる給料は生活にまぁ困らないけど海外旅行とかすぐに行けない額、というのがほとんどではないだろうか。

私の例で言えば、毎月の生活費+マッサージ代でカツカツになるぐらいの額で、貯金なんて全くと言っていいほどできなかった。

私はその給料と引き換えに膨大な自分の時間を失い、ちょっとした診断で引っかかる程度に健康も損なった。

何より精神状態が荒んで、仕事を始めてから辞めるまで「働くか死ぬか」という精神状態だった。

仕事が私に合っておらず楽しめなかったこと、仲いい人を職場に作れなかったこと(これはコミュ障の私が悪い)、給料の安さにとどめを刺され、わりとすぐに仕事を辞めた。

「石の上にも三年」なんてことわざがあるが、三年も我慢して得られるものがあるとは限らないと私は思っているし、実際前の仕事はもっと早いタイミングで辞めても良かったんじゃないかと未だに思う。

一言で言っちゃえば、みんなむちゃくちゃ莫大なエネルギーや時間を仕事につぎ込んでるんだから、もっと得られるものがデカくないとおかしくない?ってことである。

 

・理想的な世界

私が思い描く理想の世界はこんな感じだ。

まず職業を必要最低限なものに絞る。けど本当に必要最低限なものに絞ると娯楽がなくなってしまうので、娯楽も残す程度に。

働く人を必要最低限に絞った所で、働く人たちの給料をめちゃくちゃ上げる。

毎月ボーナスか!ってぐらい上げる。

そしてありとあらゆる面で優待する。だって働いているんですもの。

その一方で仕事=収入源を失った人たちはベーシックインカムでお金をもらう。

働いていたときよりちょっと少ないけど、生活はしていけるね、という額。

そうなったら世の中イライラしている人も減るだろうし、生活を大事にすることで精神的にゆとりをもって暮らしていけると思う。

マジでこうならないかな〜。

 

・それでも働く理由

そんなことを言いながらも私は働いている。バイトだけど。

一番の理由はお金だ。不労所得でもない限り、働かなければ稼げない。

けど仕事を探す時、給料だけを見ているかというとそうでもない。

仕事内容や職場の雰囲気、そこにいる人を必ず想像する。

せっかく働くなら楽しく働きたいし、あわよくば知恵とか技術とか身につけたいし、さらに欲を言えば従業員割引とかでオイシイ思いもしたい。

あと人の役に立ったり、感謝されたり必要とされるのが単純に嬉しいというのも大きい。

なんだかんだ、働くことでお金以外のメリットもしっかり享受しているのだ。

 

ただそれで週5日働けるかといわれるとノーなので、今こうやってふらふらしてるわけだが。

正社員=週5日フルタイムで働く、っていう図式が崩れたらいいのになぁ。

もう仕事はレジャー!ってぐらい精神的なゆとりを持って働ける時代が来ることを夢見て、明日のバイトに遅刻しないように寝る準備しよ。

強制される挨拶が好きじゃない

社会において必要不可欠とされている挨拶というものが昔から苦手だ。

この頃では嫌悪感さえ芽生え始めている。

この年末の時期は「今年はお世話になりました。来年もよろしくお願いします。よいお年を」と言うのがお決まりになっている。

1年という決して短くはない年月の区切りが必要なのはわかるが、そのお決まりの言葉を言うのが、ほんの少ししんどい。

年末の挨拶に限らず、お決まりの言葉を言うのが暗黙のルールとなっていて、そのルールを守らなければ「非常識」と見なされるのが、私にとって結構な負担なのである。

私は基本的に自分が思っていることしか言いたくないし、挨拶もそうだが世の中で常識・当たり前とされていることを忠実に守ることができない。

「何で今こんなことをしなきゃいけないんだ?」といちいち考えてしまう。

「そういうもんだから」の一言で納得できないのだ。

ここまで書いていて我ながら面倒くさいやつだなと思うが、もうそういう人間だからしょうがない。

ただそんな面倒くさいやつでも他人と関わらずに生きていくことは不可能なので、内心首を傾げながらもそれなりの行動はする。

(余談だがこの行動の根底にある精神を「社交性」というのなら社交性なんてクソくらえだと思う)

つい先日、仕事納めだったので退勤時間が近づく中「挨拶ってみんなにしていかなきゃいけないのか?偉い人だけでいいのか?」と悩みながら雑務を片付けていた。

 

前いた会社では退勤時間のベルが鳴ると一人一人挨拶をして回っていた。

新卒でその会社に入った私は「こうしなきゃいけないんだな」と思い、挨拶して回った。しんどかった。

そんな気遣いをせずにぶっちぎって無視して定時でさっさと帰っても良かったんじゃないかと今では思う。

多分私のように「しんどいな」と思いながら挨拶をしていた人もいるだろう。

それでも周りに合わせていたのは「そういう空気」があったからだ。

あの空気に逆らうのと、周りに合わせるしんどさを天秤にかけたら周りに合わせた方がまぁラクではある。

ただラクな方を選んだから負担がゼロになるというわけではなく、何かしらすり減っていく。

前の会社で私が身をもって経験したのはそういうことだった。

 

仕事納めの日、ふとそんなことを思い出した私は仕事を片付け定時にタイムカードを打刻した。

ドアの前で「お疲れ様です!みなさん、よいお年を!」といつもより大きめの声で挨拶してフロアを出た後「さすがに偉い人に直接挨拶しなかったのはまずかったか?」という思いがよぎったあたり、チキンで情けなかったが、ひとまずはこれで良かったんだと思う。

私が思っているほど周りは私のことを気にしていないし、以前と比べてしんどさは圧倒的に少なく、精神的にすり減ってもいない。

いい年が越せそうだな、と初めて思えた。

Radiohead「Creep」の切実さ

今さらRadioheadの「Creep」にハマっている。

トム・ヨークが女の子にフラれて作った曲」という話があるが、失恋より「美しい特別な人間になれないもどかしさ」に焦点をあてているように思う。

 

生まれながらに美しい人間というのが、ごく稀に存在する。

他人と自分を比べることがいかに無意味かわかっていても、いざ目の当たりにすると自分が無価値な人間にしか思えなくなる。

世界は美しい特別な人間とそうじゃない人間にハッキリ分かれている。

「あなたは世界に1人しかいないからそれだけで特別」なんてきれいごとでこの事実をひっくり返すことはできない。

 

個人的にトム・ヨークのルックスは最高だと思っている。それどころかド真ん中だ。

学歴もいいし、音楽の才能があることは世界が証明している。

しかし少し調べればわかるように、彼の人生は決して万人に羨ましがられるものではない。

ド真ん中と言っている私ですら、動画を見ていて一瞬真顔で引くことがあるぐらい動きが気持ち悪い。

そんな美しくない方の人間であるトム・ヨークが歌っているから、この曲は無視できない切実さを伴って人の心に届くのだ。

(というかそういう人間じゃなきゃこの曲は書けないのだけど)

何よりこの後ろ向きな曲によってバンドの知名度が上がった事実が、「美しくない方の人間であること」をより決定的にしているようで、同じ美しくない方の人間である私の胸を締め付けるのだ。

愚かな期待が引き起こす錯覚は、きっと美しい

共感と理解をイコールで結ぶことはできない。

同じものが好き、同じような経験をした、同じように見える傷跡がある。

それだけで相手と自分の距離が近づいて重なるような感覚を覚えるが、それはきっと錯覚だ。

 

思春期の頃、私はいわゆる不登校児になった。

私のことを理解しようとしてくれる人が1人もいない環境で、音楽だけが救いだった。

それから数年後、これ以上ないほど音楽の趣味が合う人と出会った。

当時は全く意識していなかったが、音楽の趣味が合うことで「この人は辛かった時の私の気持ちをわかってくれるかもしれない、きっと理解者になってくれる」という盛大な勘違いをしていたように思う。

非常に残念なことに、傷を癒したものを知っているから傷も理解してもらえるというのは都合のいい思い込みだ。

そう考えると当時の私は相手を「好き」だと思っていたが、「好き」の中身は純100%の期待だったような気もする。

けど相手が視界に入るだけでドキドキしたのも、話したいことの1つもまともに話せなかったのも、好きなものが同じだとわかる度自分が相手に受け入れられたと錯覚するぐらい嬉しかったのも事実だ。

これを恋愛感情といわずしてなんというのだろう。

 

あの頃無意識のうちに信じ込んでいた「自分にとって思い入れが深いものを知っている=理解し合える」という図式は、今の私にとってはファンタジー同然だし、他人と100%理解し合うなんてありえない奇跡だ。

そんな私がこれから先どうやって人を好きになるのか、そもそも人を好きになれるのか疑問だ。

けど恋なんて重力と同じ不可抗力だから、きっと落ちる時はあっけなく落ちるんだろう。

その時私はその感情を錯覚だと自嘲するのか、再び愚かな思い込みをするのかわからないが、もう一度ぐらい、後から思い返して「バカなことをしたなぁ」と自分の若さを笑いたい気持ちもある。

「何を考えてるかわからない」

知り合って間もない人や、あまり話したことない人と接する時はほぼ無表情になっていると思う。

自分の考えてることは信頼している人以外に話したくないし、信頼できない人との会話を「めんどくさい」とすら思っている。

そのせいか面と向かって「何を考えてるかわからない」と言われたことが何回かある。

その度に「他人の考えてることなんかわからないのが当たり前なのに一体何を言ってるんだ」と思っていたが、どうも言いたいことはそれだけじゃないらしいと最近ようやく気づいた。

恐らくだが「考えていることをもっと話してくれ」という意味が多分に含まれていたんだろう。

自分では必要最低限のコミュニケーションを取っているつもりだったけど、こう言われるということはもっといろいろ話さなくちゃならなかったんだろうな(めんどくさ)。

その場だけでの付き合いの他人(例えば同じ職場の人)と協力作業しなきゃいけない時は「◯◯のために△△して」ぐらいの会話で済ませたいぐらいコミュニケーションというやつが苦手だし、1度に2つのことをしようとすると頭がぐちゃぐちゃになる。

「話しながら作業するの苦手なんで」と言うこともできるが、雰囲気を悪くするようで気が引ける。

 

雑談が嫌いなのではない。

決まった人間しか出入りしない場所でちょっと口を開くと、その場にいなかったはずの人間にまで話した内容が伝わることが気持ち悪いのだ。

話が伝わったルートは大体想像がつくし、知られたくないことはそもそも話さないので問題はない。

けれど自分の家に誰かが土足で入った跡を見るような、そんなざわついた気持ちになる。

話していないはずの人間に自分の話を知られていることが、どうしても引っかかるのだ。

「自意識過剰」と切り捨てることができる人は、私が苦手とする場所で輝ける人だろう。

いつも真剣な話をするわけではないが私は私の話をきちんと聞いてほしいし、私の話を自分の持ち物のように扱ってほしくない。

私がこういう面倒くさい人間である限り、「何を考えてるかわからない」とこれからも言われ続けるんだろうな。

ブリッジ(The Bridge)

自殺の有名スポット、ゴールデンゲート・ブリッジに1年間カメラを設置し、身投げを決行する人たちを捉えたドキュメンタリー。欄干を越えた後も躊躇するように佇む人、しばらく海を眺めた後欄干に立ちそのまま頭からダイブする人、様々である。時折のどかな日常風景(家族連れやスケッチをする人々など)が映し出されるが、背景に橋があるせいでどうしても死を意識させられる。

 

帰らぬ人となった人たちは、精神病を何年も患っていた人、「死にたい」と口癖のように言っていた人たちがほとんどだ。しかし「彼は自殺するタイプじゃないと思っていた」と証言されるような、人と関わるのが好きだった人もいる。

恐らく「自殺する/しないタイプに分かれる」という考えは誤りで、「誰にでも自殺をする可能性がある」と考えるべきだろう。 

 

生還を果たした人は「橋から手を離した瞬間、死にたくないと思った」と語っている。

彼は誰かに止められるのを避け、確実に死ぬため、欄干に手をかけそのまま頭からダイブしたという。もしその場面を見ていたら「よほど死にたかったのか」と思っただろう。しかし少しでも生還の可能性を上げるため、水面に落ちるまでのわずかな時間で彼は体勢を変え、足からダイブすることに成功した。

本物の自殺の瞬間はショッキングではある。しかし、その人の人生最後の瞬間を見たからといって、何を考えて自殺に至ったのか、最後の最後まで死を望んでいたのかまではわからないのだ。

 

ラストのエンドロールでは、2004年に橋から身投げした人の名前と日付が表示される。

死を悼むようで感動すら覚えるが、それはその人たちが私の知らない人だからであって、これが自分の知り合いや身内ならこんな感情には到底ならないだろう。死をロマンと結びつけられるのは、「死者が知らない人」というが前提が必要だ。

 

鑑賞中、中学時代の出来事を思い出した。

校舎の4階の窓から地面を友達となんとなく眺めていた時のことだ。

最初は自分たちがいる所と地面の高低差に恐怖を感じていたが、見慣れてくると「案外地面って近い気がする、落ちても大丈夫かも」なんて思えた。ちょうどそう思った時、友達も「なんかずっと見てると落ちても大丈夫な気がしてくるね」と言った。

自殺を思いついて行動に移すまでのプロセスも、これに近いんじゃないかと思う。

自殺を考えるきっかけは些細なことであっても、自殺についての思考が毎日繰り返されることで、自殺という行為が当たり前に感じられて、自分の死に対する感覚が麻痺してしまうんじゃないだろうか。慣れというのは怖いもので、死にも適用されるのだ。

  

この映画から「自殺は周りの人を悲しませるからよくない、やめよう」といったメッセージは感じられない。よく自殺について考えていた私はその点に好感を抱いた。自殺未遂といえるほどの行動を起こしたことはないし、私が常日頃と言ってもいいぐらい自殺を考えていたことを誰も知らない。自分が人生を終える瞬間を妄想していると安心さえした。

私の場合この映画に出てきた人たちのように、精神病を患っていたり失恋を経験したばかりだったり、親に愛されている実感がないというわけではない。ただただ面倒くさいのだ。

朝起きて身支度を整え食事をし、その後片付けをし仕事や予定に間に合うよう家を出る。

仕事先で大勢のよく知らない人たちと同じ室内で(学校も会社も大嫌いだ。息が詰まる)、突き詰めて考えればこんなことしなくても何とかなるんじゃないかと思える仕事に1日の時間を費やす。 

家に帰った後は食事をとり、食器と家事を片付ける。

清潔であるために風呂に入り髪を乾かし、明日に支障が出ないよう就寝する。

こんなことをあと何十年も続けていくと考えただけでクラクラしてしまう。特別やりたいことや会いたい人がいない私にとって、死は救いですらある。私のように死や人生の終わりに救いを見いだす人が、なにがなんでも生にしがみつきたくなるほどの希望を他者から与えられるなんて到底信じられない。自殺が個人の問題として片付けられがちなのは、どうやって生きるかが結局その人自身の意思によるところが大きいからではないのか。

他者に救われた経験はあるし、自殺志願者を止める術がないとは思わない。けどその中に「死にたい」という欲求を根本から変えるほど画期的なものが、果たしてあるだろうか。私がこう考えてしまうのは「現代の孤独を抱えているゆえ」の一言で片付けられるのかもしれない。

 

怒り

吉田修一原作、李相日監督の「悪人」は劇場で観ることができなかった。

興味はあったものの、当時の私にとって映画館に足を運ぶという行為はハードルが高かった。

公開終了してから数年後、DVDをレンタルして映画館に足を運ばなかったことを後悔した。

「悪人」には妻夫木聡柄本明といった映画に疎い私でも知っている俳優が出ていたが、これまでに見たことのない顔をしていた。

「目の前にいる人に言葉にならないほどの感情を伝えようとする時、人の顔はこんなに変わるのか」と驚いた。

「次、李監督作が公開されたら、絶対劇場で観る」と誓った。

 

念願かなって公開初日(2016年9月17日)に観ることができたにも関わらず、こうして感想を書くのにずいぶん時間がかかったのは、ある暴力シーンによる無力感のためだ。

原作はフィクション、当然映画も作り物である。

しかし、この映画の登場人物と全く同じ暴力を受けた被害者が現実に存在しており、新たな被害者がいつ生まれてもおかしくないという意味では現在進行形のノンフィクションだ。

この暴力をなくそうと行動している人々もいる。

にも関わらず、暴力の根源は今も存在し続けている。

助けたいと思いながらも「どうせ変わらない」と諦め、助けるためのことは何もできず、ただただ凄惨な暴力を目の当たりにした無力感を、今も引きずっている。

 

あらすじ

都内で、ある夫婦が残忍に殺された。

現場には被害者の血で書かれた「怒」の文字。

容疑者・山神は逮捕されておらず、千葉・東京・沖縄にそれぞれ身元不詳の男が現れる。

千葉の漁港で「田代」と名乗る男が働き始め、東京に住む有馬はハッテン場で出会った「直人」と住むようになり、沖縄に引っ越して来たばかりの泉は「田中」と親しくなる。

犯人が誰かは終盤までわからないため、観客は田代・直人・田中を信じたいと願う愛子・有馬・辰哉に感情移入しながら観ることになる。

指名手配の顔写真が絶妙に作られており、松山ケンイチ綾野剛森山未來という決して似てはいない3人を重ねられる顔になっている。

 

信じることは難しい、と言われがちだがそれは「この人を信じよう/信じたい」と意識した場合に限定されると思う。

気づいたら相手のことを信じていたというのがほとんどではないだろうか。

信じていたことに気づくのは、相手に裏切られたり、相手が予想外の行動や発言をした時だ。

そして、信じている/信じていないの境界線は、自分の秘密=裸を相手に見せられるかどうかだと思う。

みっともない、格好悪くて恥ずかしい自分を見せているのだから、相手も裸になってくれているだろうと思い込む。

しかし、相手は裸に見える服を着ているかもしれない。

相手が本当に裸かどうかを確かめる術はなく、「相手も自分と同じように裸を見せてくれている」と信じるしかないのだ。

信じることはリスクが高い上に保証もない。

あらかじめ相手と自分の間に線を引いてしまえば、裏切られることも傷つくこともない。

けれど孤独は癒せない。

 

 

以下、少々のネタバレを含みます。

犯人や結末は明かさず、この感想を読んでから劇場に行っても楽しめるよう配慮して書いてます。

 

 

 

 

 

 

 

千葉 田代

千葉では親子間の信頼関係にスポットライトが当てられる。

生活を共にし、外部の人間の目には触れない短所も長所も知っている。

長い間一緒にいれば、自然とお互いに信頼が芽生えると思いがちだが、果たしてそうだろうか?

家族であれ親子であれ、心の底から理解し合えることは稀だ。

それなのに面と向かって言えない考えや不安は、案外伝わってしまう。

 

親であれば子を思い、心配するのは当然だ。

「よかれと思って」

善意が事態を明るい方に導くとは限らない。

 

背中で語る渡辺謙の演技を、是非劇場で観て欲しい。

 

 

東京 直人

東京で暮らす有馬は、誰が見ても理想的な人物だ。

都内の広いインテリアに凝った部屋に住み、ブランドものと一目で分かる上質なスーツを着こなし、自信にあふれいつも堂々としている。

ゲイパーティーに一緒に行ける仲間もいて、ルックスだって恵まれてる。

一見誰もが羨む人生を謳歌しているように見えるが、もう先が長くない母の横で出会い系サイトを閲覧するほどには孤独だ。

 

話は逸れるが、映画ではこういう表現をしてほしい。例えば、どこか洒落た飲食店でゲイ仲間に「俺もさみしい時あるよ」と言葉で有馬の孤独を表現されても「いやいやめっちゃ楽しそうじゃないですか」としか思えない。

言葉で主人公の状況や心情を説明する映画やドラマを見かける度、なぜ言葉を主体とした表現である小説や詩を選択しないのか疑問に思う。鑑賞者の読解力不足という背景もあるのかもしれないが、どんなにいいストーリーであっても、表現方法と媒体の不一致、小道具のリアリティのなさだけで冷めてしまう。

有馬のキッチンにあったケトルなんて劇中あってもなくても良い物だ。けどそこに北欧風デザインのケトルを置くだけで、センスが良く、持ち物にこだわる有馬の人物面を見せることができる。

言葉で言ってしまう方がわかりやすいし、より多くの人に伝わるだろう。けれど言葉以外の手段で説明可能な表現方法を選んでおきながら、言葉に頼ってしまうのはいかがなものかと最近よく思う。

 

有馬はハッテン場で直人と出会い、次第に心を開いていく。

休みとあらば外に出かけ常に刺激を求めていた有馬だったが、心許せる直人によって生活が変化していく。

そしてそれは有馬にとって幸福な生活でもあった。

 

しかし直人は身元不詳の他人だ。

いくら心を許したからといって、幸福と安全を天秤にかけないほど有馬は馬鹿じゃない。

その賢さが吉と出るか、凶と出るか。

 

 

沖縄 田中

沖縄に移住してきた高校生の泉は、現地の同じぐらいの年の男の子・辰哉と仲良くなる。

辰哉に連れて行ってもらった無人島・星の島探索中に、「田中」と名乗る男に会う。

転校や引越しなど、知り合いのいない土地に行かざるを得なかった経験がある人は、泉と自分を重ねるかもしれない。

知り合いが増えるにつれ、知らなかった土地に対しても安心感が芽生える。

 

田中はバックパッカーであり、いろんなところを旅してきたと言う。

高校生、自由に生きている大人への憧れが一番強い時期ではないだろうか。

憧れには、「自分の知らないことを知っている・きっとすごい経験をしている」という意味の「信頼」も含まれている。

底抜けに他人を信じられることが、眩しくて、うらやましくて、愚かだと笑いたくなるかもしれない。

徐々に深まっていくように見える3人の絆は、果たして何で結ばれているのか。