幸せになりたいけど 頑張りたくない

実家暮らしアラサー女のブログ。「言語化能力を鍛えるため」という大義名分で更新されるが中身はくだらない。たまにコスメ・映画レビュー。

愚かな期待が引き起こす錯覚は、きっと美しい

共感と理解をイコールで結ぶことはできない。

同じものが好き、同じような経験をした、同じように見える傷跡がある。

それだけで相手と自分の距離が近づいて重なるような感覚を覚えるが、それはきっと錯覚だ。

 

思春期の頃、私はいわゆる不登校児になった。

私のことを理解しようとしてくれる人が1人もいない環境で、音楽だけが救いだった。

それから数年後、これ以上ないほど音楽の趣味が合う人と出会った。

当時は全く意識していなかったが、音楽の趣味が合うことで「この人は辛かった時の私の気持ちをわかってくれるかもしれない、きっと理解者になってくれる」という盛大な勘違いをしていたように思う。

非常に残念なことに、傷を癒したものを知っているから傷も理解してもらえるというのは都合のいい思い込みだ。

そう考えると当時の私は相手を「好き」だと思っていたが、「好き」の中身は純100%の期待だったような気もする。

けど相手が視界に入るだけでドキドキしたのも、話したいことの1つもまともに話せなかったのも、好きなものが同じだとわかる度自分が相手に受け入れられたと錯覚するぐらい嬉しかったのも事実だ。

これを恋愛感情といわずしてなんというのだろう。

 

あの頃無意識のうちに信じ込んでいた「自分にとって思い入れが深いものを知っている=理解し合える」という図式は、今の私にとってはファンタジー同然だし、他人と100%理解し合うなんてありえない奇跡だ。

そんな私がこれから先どうやって人を好きになるのか、そもそも人を好きになれるのか疑問だ。

けど恋なんて重力と同じ不可抗力だから、きっと落ちる時はあっけなく落ちるんだろう。

その時私はその感情を錯覚だと自嘲するのか、再び愚かな思い込みをするのかわからないが、もう一度ぐらい、後から思い返して「バカなことをしたなぁ」と自分の若さを笑いたい気持ちもある。

「何を考えてるかわからない」

知り合って間もない人や、あまり話したことない人と接する時はほぼ無表情になっていると思う。

自分の考えてることは信頼している人以外に話したくないし、信頼できない人との会話を「めんどくさい」とすら思っている。

そのせいか面と向かって「何を考えてるかわからない」と言われたことが何回かある。

その度に「他人の考えてることなんかわからないのが当たり前なのに一体何を言ってるんだ」と思っていたが、どうも言いたいことはそれだけじゃないらしいと最近ようやく気づいた。

恐らくだが「考えていることをもっと話してくれ」という意味が多分に含まれていたんだろう。

自分では必要最低限のコミュニケーションを取っているつもりだったけど、こう言われるということはもっといろいろ話さなくちゃならなかったんだろうな(めんどくさ)。

その場だけでの付き合いの他人(例えば同じ職場の人)と協力作業しなきゃいけない時は「◯◯のために△△して」ぐらいの会話で済ませたいぐらいコミュニケーションというやつが苦手だし、1度に2つのことをしようとすると頭がぐちゃぐちゃになる。

「話しながら作業するの苦手なんで」と言うこともできるが、雰囲気を悪くするようで気が引ける。

 

雑談が嫌いなのではない。

決まった人間しか出入りしない場所でちょっと口を開くと、その場にいなかったはずの人間にまで話した内容が伝わることが気持ち悪いのだ。

話が伝わったルートは大体想像がつくし、知られたくないことはそもそも話さないので問題はない。

けれど自分の家に誰かが土足で入った跡を見るような、そんなざわついた気持ちになる。

話していないはずの人間に自分の話を知られていることが、どうしても引っかかるのだ。

「自意識過剰」と切り捨てることができる人は、私が苦手とする場所で輝ける人だろう。

いつも真剣な話をするわけではないが私は私の話をきちんと聞いてほしいし、私の話を自分の持ち物のように扱ってほしくない。

私がこういう面倒くさい人間である限り、「何を考えてるかわからない」とこれからも言われ続けるんだろうな。

ブリッジ(The Bridge)

自殺の有名スポット、ゴールデンゲート・ブリッジに1年間カメラを設置し、身投げを決行する人たちを捉えたドキュメンタリー。欄干を越えた後も躊躇するように佇む人、しばらく海を眺めた後欄干に立ちそのまま頭からダイブする人、様々である。時折のどかな日常風景(家族連れやスケッチをする人々など)が映し出されるが、背景に橋があるせいでどうしても死を意識させられる。

 

帰らぬ人となった人たちは、精神病を何年も患っていた人、「死にたい」と口癖のように言っていた人たちがほとんどだ。しかし「彼は自殺するタイプじゃないと思っていた」と証言されるような、人と関わるのが好きだった人もいる。

恐らく「自殺する/しないタイプに分かれる」という考えは誤りで、「誰にでも自殺をする可能性がある」と考えるべきだろう。 

 

生還を果たした人は「橋から手を離した瞬間、死にたくないと思った」と語っている。

彼は誰かに止められるのを避け、確実に死ぬため、欄干に手をかけそのまま頭からダイブしたという。もしその場面を見ていたら「よほど死にたかったのか」と思っただろう。しかし少しでも生還の可能性を上げるため、水面に落ちるまでのわずかな時間で彼は体勢を変え、足からダイブすることに成功した。

本物の自殺の瞬間はショッキングではある。しかし、その人の人生最後の瞬間を見たからといって、何を考えて自殺に至ったのか、最後の最後まで死を望んでいたのかまではわからないのだ。

 

ラストのエンドロールでは、2004年に橋から身投げした人の名前と日付が表示される。

死を悼むようで感動すら覚えるが、それはその人たちが私の知らない人だからであって、これが自分の知り合いや身内ならこんな感情には到底ならないだろう。死をロマンと結びつけられるのは、「死者が知らない人」というが前提が必要だ。

 

鑑賞中、中学時代の出来事を思い出した。

校舎の4階の窓から地面を友達となんとなく眺めていた時のことだ。

最初は自分たちがいる所と地面の高低差に恐怖を感じていたが、見慣れてくると「案外地面って近い気がする、落ちても大丈夫かも」なんて思えた。ちょうどそう思った時、友達も「なんかずっと見てると落ちても大丈夫な気がしてくるね」と言った。

自殺を思いついて行動に移すまでのプロセスも、これに近いんじゃないかと思う。

自殺を考えるきっかけは些細なことであっても、自殺についての思考が毎日繰り返されることで、自殺という行為が当たり前に感じられて、自分の死に対する感覚が麻痺してしまうんじゃないだろうか。慣れというのは怖いもので、死にも適用されるのだ。

  

この映画から「自殺は周りの人を悲しませるからよくない、やめよう」といったメッセージは感じられない。よく自殺について考えていた私はその点に好感を抱いた。自殺未遂といえるほどの行動を起こしたことはないし、私が常日頃と言ってもいいぐらい自殺を考えていたことを誰も知らない。自分が人生を終える瞬間を妄想していると安心さえした。

私の場合この映画に出てきた人たちのように、精神病を患っていたり失恋を経験したばかりだったり、親に愛されている実感がないというわけではない。ただただ面倒くさいのだ。

朝起きて身支度を整え食事をし、その後片付けをし仕事や予定に間に合うよう家を出る。

仕事先で大勢のよく知らない人たちと同じ室内で(学校も会社も大嫌いだ。息が詰まる)、突き詰めて考えればこんなことしなくても何とかなるんじゃないかと思える仕事に1日の時間を費やす。 

家に帰った後は食事をとり、食器と家事を片付ける。

清潔であるために風呂に入り髪を乾かし、明日に支障が出ないよう就寝する。

こんなことをあと何十年も続けていくと考えただけでクラクラしてしまう。特別やりたいことや会いたい人がいない私にとって、死は救いですらある。私のように死や人生の終わりに救いを見いだす人が、なにがなんでも生にしがみつきたくなるほどの希望を他者から与えられるなんて到底信じられない。自殺が個人の問題として片付けられがちなのは、どうやって生きるかが結局その人自身の意思によるところが大きいからではないのか。

他者に救われた経験はあるし、自殺志願者を止める術がないとは思わない。けどその中に「死にたい」という欲求を根本から変えるほど画期的なものが、果たしてあるだろうか。私がこう考えてしまうのは「現代の孤独を抱えているゆえ」の一言で片付けられるのかもしれない。

 

怒り

吉田修一原作、李相日監督の「悪人」は劇場で観ることができなかった。

興味はあったものの、当時の私にとって映画館に足を運ぶという行為はハードルが高かった。

公開終了してから数年後、DVDをレンタルして映画館に足を運ばなかったことを後悔した。

「悪人」には妻夫木聡柄本明といった映画に疎い私でも知っている俳優が出ていたが、これまでに見たことのない顔をしていた。

「目の前にいる人に言葉にならないほどの感情を伝えようとする時、人の顔はこんなに変わるのか」と驚いた。

「次、李監督作が公開されたら、絶対劇場で観る」と誓った。

 

念願かなって公開初日(2016年9月17日)に観ることができたにも関わらず、こうして感想を書くのにずいぶん時間がかかったのは、ある暴力シーンによる無力感のためだ。

原作はフィクション、当然映画も作り物である。

しかし、この映画の登場人物と全く同じ暴力を受けた被害者が現実に存在しており、新たな被害者がいつ生まれてもおかしくないという意味では現在進行形のノンフィクションだ。

この暴力をなくそうと行動している人々もいる。

にも関わらず、暴力の根源は今も存在し続けている。

助けたいと思いながらも「どうせ変わらない」と諦め、助けるためのことは何もできず、ただただ凄惨な暴力を目の当たりにした無力感を、今も引きずっている。

 

あらすじ

都内で、ある夫婦が残忍に殺された。

現場には被害者の血で書かれた「怒」の文字。

容疑者・山神は逮捕されておらず、千葉・東京・沖縄にそれぞれ身元不詳の男が現れる。

千葉の漁港で「田代」と名乗る男が働き始め、東京に住む有馬はハッテン場で出会った「直人」と住むようになり、沖縄に引っ越して来たばかりの泉は「田中」と親しくなる。

犯人が誰かは終盤までわからないため、観客は田代・直人・田中を信じたいと願う愛子・有馬・辰哉に感情移入しながら観ることになる。

指名手配の顔写真が絶妙に作られており、松山ケンイチ綾野剛森山未來という決して似てはいない3人を重ねられる顔になっている。

 

信じることは難しい、と言われがちだがそれは「この人を信じよう/信じたい」と意識した場合に限定されると思う。

気づいたら相手のことを信じていたというのがほとんどではないだろうか。

信じていたことに気づくのは、相手に裏切られたり、相手が予想外の行動や発言をした時だ。

そして、信じている/信じていないの境界線は、自分の秘密=裸を相手に見せられるかどうかだと思う。

みっともない、格好悪くて恥ずかしい自分を見せているのだから、相手も裸になってくれているだろうと思い込む。

しかし、相手は裸に見える服を着ているかもしれない。

相手が本当に裸かどうかを確かめる術はなく、「相手も自分と同じように裸を見せてくれている」と信じるしかないのだ。

信じることはリスクが高い上に保証もない。

あらかじめ相手と自分の間に線を引いてしまえば、裏切られることも傷つくこともない。

けれど孤独は癒せない。

 

 

以下、少々のネタバレを含みます。

犯人や結末は明かさず、この感想を読んでから劇場に行っても楽しめるよう配慮して書いてます。

 

 

 

 

 

 

 

千葉 田代

千葉では親子間の信頼関係にスポットライトが当てられる。

生活を共にし、外部の人間の目には触れない短所も長所も知っている。

長い間一緒にいれば、自然とお互いに信頼が芽生えると思いがちだが、果たしてそうだろうか?

家族であれ親子であれ、心の底から理解し合えることは稀だ。

それなのに面と向かって言えない考えや不安は、案外伝わってしまう。

 

親であれば子を思い、心配するのは当然だ。

「よかれと思って」

善意が事態を明るい方に導くとは限らない。

 

背中で語る渡辺謙の演技を、是非劇場で観て欲しい。

 

 

東京 直人

東京で暮らす有馬は、誰が見ても理想的な人物だ。

都内の広いインテリアに凝った部屋に住み、ブランドものと一目で分かる上質なスーツを着こなし、自信にあふれいつも堂々としている。

ゲイパーティーに一緒に行ける仲間もいて、ルックスだって恵まれてる。

一見誰もが羨む人生を謳歌しているように見えるが、もう先が長くない母の横で出会い系サイトを閲覧するほどには孤独だ。

 

話は逸れるが、映画ではこういう表現をしてほしい。例えば、どこか洒落た飲食店でゲイ仲間に「俺もさみしい時あるよ」と言葉で有馬の孤独を表現されても「いやいやめっちゃ楽しそうじゃないですか」としか思えない。

言葉で主人公の状況や心情を説明する映画やドラマを見かける度、なぜ言葉を主体とした表現である小説や詩を選択しないのか疑問に思う。鑑賞者の読解力不足という背景もあるのかもしれないが、どんなにいいストーリーであっても、表現方法と媒体の不一致、小道具のリアリティのなさだけで冷めてしまう。

有馬のキッチンにあったケトルなんて劇中あってもなくても良い物だ。けどそこに北欧風デザインのケトルを置くだけで、センスが良く、持ち物にこだわる有馬の人物面を見せることができる。

言葉で言ってしまう方がわかりやすいし、より多くの人に伝わるだろう。けれど言葉以外の手段で説明可能な表現方法を選んでおきながら、言葉に頼ってしまうのはいかがなものかと最近よく思う。

 

有馬はハッテン場で直人と出会い、次第に心を開いていく。

休みとあらば外に出かけ常に刺激を求めていた有馬だったが、心許せる直人によって生活が変化していく。

そしてそれは有馬にとって幸福な生活でもあった。

 

しかし直人は身元不詳の他人だ。

いくら心を許したからといって、幸福と安全を天秤にかけないほど有馬は馬鹿じゃない。

その賢さが吉と出るか、凶と出るか。

 

 

沖縄 田中

沖縄に移住してきた高校生の泉は、現地の同じぐらいの年の男の子・辰哉と仲良くなる。

辰哉に連れて行ってもらった無人島・星の島探索中に、「田中」と名乗る男に会う。

転校や引越しなど、知り合いのいない土地に行かざるを得なかった経験がある人は、泉と自分を重ねるかもしれない。

知り合いが増えるにつれ、知らなかった土地に対しても安心感が芽生える。

 

田中はバックパッカーであり、いろんなところを旅してきたと言う。

高校生、自由に生きている大人への憧れが一番強い時期ではないだろうか。

憧れには、「自分の知らないことを知っている・きっとすごい経験をしている」という意味の「信頼」も含まれている。

底抜けに他人を信じられることが、眩しくて、うらやましくて、愚かだと笑いたくなるかもしれない。

徐々に深まっていくように見える3人の絆は、果たして何で結ばれているのか。

ピエロがお前を嘲笑う(Who Am I - No System Is Safe)

ある映画を元ネタにしたマインドファック・ムービー。

マインドファック・ムービーとは、見る人の予想を覆すドンデン返し映画のことだそう。

 

とある映画感想ブログで、私の大好きな映画が元ネタになっていることを知ったのが鑑賞のきっかけ。

なので、この作品の肝ともいえるドンデン返しの部分は素直に楽しめんかったけど、それでもおもしろかった。

何がおもしろかったのか?

 

①ドンデン返しが2回!元ネタ映画を知っている人も、最後は騙される

最初の1回は元ネタ映画を知っている人は騙されない。けど最後のドンデン返しは元ネタ映画を知っているからこそ騙される。こちらの裏をかくよう練られていて「やられた!」と思う。

 

②元ネタ映画がおもっきし出てくる

元ネタって普通隠したいものだと思うのだけど、思いっきり出てくる。しかも主人公の部屋に。

自分の好きなものが元ネタに使われていると「元ネタの方が優れている」と証明したくなるというか、反発したくなるけど、劇中でここまでネタばらししていると好印象しかない。同じものに憧れ影響を受けた同士、とでもいうのか、そんな気持ちが芽生える。

脚本の詰めの甘さが気になる場面もあれど、同じ映画ファンとして許しちゃう!

あるもののCG映像、一時停止して入る主人公のナレーション、高速巻き戻しなど、元ネタ映画のまんまで最早潔い。

 

③サイバー空間の表現

サイバー空間を満員電車のように表現していて、これが意外と合ってる。というか「サイバー空間ってこんな感じかも」と思わせる。

自分以外の乗客(ユーザー)がいることはわかるけど、素性まではわからない。

ラスボス的存在・MRXの衣装が安っぽいことや、ハッキングを行っているPC画面のリアリティのなさは気になったけど、同じ映画ファンとして許しちゃう!(2回目)

運悪く?ハッキングやSNSを題材にした映画が元ネタ映画の監督作にあって、「よくあんなにリアルに作れたな」と感心したり。

 

元ネタ映画のファンにも好感を抱かれる、なかなか希有な映画。

最後に、ネタばらしのシーンを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 f:id:almostcinefil:20160911144859p:plain

 

 

石けん石けん!

リトル・ダンサー(Billy Elliot)

ネタバレあり。

 

ニンフォマニアック」のジェイミー・ベルがあまりにも美しかったのでレンタル。

彼の記念すべきデビュー作。

この時から顔変わってない!美少年!

 

踊ることが好きでバレエダンサーを夢見る少年・ビリーが、考え方が古い村で夢を叶えるため奮闘するストーリー。

悪く言い方になるけど「信じていれば夢は叶う」の王道パターンをなぞっていて、目新しさやリアリティな描写はなし。

正直書くことといったらジェイミー・ベルの変わらぬ美貌ぐらいだけど、それだけじゃあんまりなので。

 

映画全体を通して女性の映し方・扱いが雑。

例えばビリーにダンスを教えてくれて、受験にも協力的だった先生。

ビリーの父と兄を説得し、受験にも尽力してくれたのに合格と聞いても嬉しそうでもなく、それっきり出てこずに映画が終わったのはビックリした。

ビリーに「負け犬」と言われたことを根に持っているとも考えられるけど、あんなに目にかけていた教え子の晴れ舞台を観に行かないのは腑に落ちない。

さらにその先生の娘であり、ビリーに想いを寄せていた女の子なんて、合格すらビリーの口から聞くことなく出番終了。

ビリーの初恋を表現させるためだったのか?

 

ビリーの初舞台を観に来たのは父と兄、ゲイでビリーに好意を寄せていた男の子のみ。

もしかして監督、女嫌い?なんて邪推して調べてみた。

同監督の「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」「トラッシュ!」では女性の扱いが気にならなかったので、特別そういうわけじゃなさそう。

 

あとこれはどうしようもないんだけど、数年後のビリーの成長が凄まじくて最初誰かわからなかった。

しかも父と兄はわりとそのままだったから、数年後の設定であることになかなか気づけず。

時間の経過を人物で表現するのは難しいだろうけど、父と兄のメイクをなんとかすればよかったのでは?なんて偉そうに思っちゃったり。

 

そしてなぜか多用されているTレックスの楽曲。

オープニングで「Get It On」流れたときはテンション上がったけど。

いろいろ首をひねった映画だったけど、調べるほどではなく。

 

いろいろ書いたけど、ジェイミー・ベルの美しさは格別なので、いい目の保養になりました。