幸せになりたいけど 頑張りたくない

実家暮らしアラサー女のブログ。「言語化能力を鍛えるため」という大義名分で更新されるが中身はくだらない。たまにコスメ・映画レビュー。

シン・エヴァンゲリオン劇場版:|| 大人になることを許された子どもたち

これまで公開されていたエヴァの劇場版完結編がアップデートされたという。なかなか観に行く決意ができなかったけれど、「3.0+1.0」と副題が改められたタイミングで観に行くのがいい気がした。というのは建前で、特典商法に引っかかっただけです。すいませんカッコつけました。でも観に行くきっかけができて良かった。

完結編を観ることは「終わり」を受け入れることで、エヴァ世代ど真ん中でもなければたいそうな考察をしたこともないくせに、「終わり」を迎えてしまうのがなんだかもったいなくてずるずる先延ばしにしていた。でもまぁとにかく観てきたので、感想書きます。TVアニメ版、旧劇場版( Air/まごころをを、君に)は鑑賞済み、用語はキリスト教と関係があるらしいぐらいの知識しかないので、深い考察とか解説は一切ないです。

アスカの名前や新キャラ・マリちゃんなどの設定から、TVアニメ版、旧劇場版と地続きではなく「旧作とはいろんなことが少し変わった世界のエヴァ」として観ています。

※以下ネタバレ注意

 

 

 

 

 

公開当時、「隣の席の人が泣いていた」とか「劇場内で鼻をすする音がしていた」といった感想を見た。上にも書いた通り私はさほど熱心なエヴァファンではないので、泣きたくても泣けないだろうなぁと思っていた。それでも冒頭の「これまでのエヴァンゲリオン」で「あぁ、本当に終わってしまうんだなぁ」と涙が出そうになって自分でも驚いた。熱心なファンではないけど、Amazonプライムでこれまでの劇場版を観ていたし、ここ最近のBGMは宇多田ヒカルの「Beautiful World」だったことを考えると、私にとって影響力がある作品なのは間違いない。

余談だが宇多田ヒカルを最もすごいと思ったのは「Beautiful World」を初めて聴いた時だった。「エヴァにここまでぴったりな曲を、しかもファンである宇多田ヒカルが作ったなんて…!」とにわかには信じられなかった。「天才」とかそういう次元を超えている、と初めて人に対して思いました。余談終わり。

 

映画を観ている間「お前らもいい加減大人になれよ」と言われている気がして、あまり自信はないけど本作のテーマは「卒業」だと思ってる。その上での感想です。

「Q」エヴァパイロットの見た目が変わらない理由は「エヴァの呪縛」と説明された。本作ではアスカは、まともな食事をとらなくても眠らなくても生きていける体になってしまったことが明らかになる。アスカだけなのか、エヴァに乗るといずれそうなってしまうのかは説明されなかったけど、これも「エヴァの呪縛」じゃないかと。見た目は14歳の人間でも、もう人と呼べる域にいない。アスカが自分と区別するように一般人を「リリン」と呼ぶのも、「あなたのことが好きだったけど、私の方が先に大人になっちゃった」とシンジくんに言うのも、見た目と中身がともなわない歯がゆさと切なさがにじむ。

人類補完計画を意地でも完遂しようとするゲンドウを、北上ミドリ(ピンク色の髪の女の子)は「エゴじゃん」と一蹴する。まったくその通りで、エヴァの登場人物も関係者もファンも、ゲンドウのエゴに25年間振り回されてきたといっていい。ゲンドウのセリフが少なかった旧作とちがって、本作ではなんとゲンドウの独白シーンがある。親との関係、周りの人間と関わりを持たないよう生きてきた子ども時代、ユイとの出会い、初めて知った本当の孤独。ゲンドウがシンジくんとまともな親子関係を築けなかったのは、「親から愛されていない」からだけでなく、シンジくんに自分のことを理解してほしかったからでは。「ユイに会いたい」というシンプルな願いに反して、ずいぶん複雑な道のりになったことを考えても、「不器用」の代名詞はもはや高倉健より碇ゲンドウの方がふさわしい。でもその不器用さのおかげでエヴァが生まれたと思うと、ケンスケじゃないけど悪いことばかりじゃないね。

すべて理解できていないし、すべて理解できる日が来るとも思えなければ、「Q」との矛盾が気になったシーンもあった。それでも、エヴァファンが最後に見たいと思っていたであろうもの、旧作より少し幸せになったみんなが見れて、私は満足です。

初号機に乗るシンジくん

おなじみの髪型のミサトさん

シンジくんに再会できた二人目の綾波

幸せになったトウジ

母親とゲンドウに縛られていないリツ子さん

生きてお別れを言えた加持さんとミサトさん

アスカは安らげる場所を見つけられた、と思いたいけど、どうなんだろうなぁ。少なくとも旧劇場版より幸せになっているのは確か。

旧劇場版で「他人と生きる」と決意しても、やっぱり他人が怖いからかアスカの首を絞めたシンジくんが、アスカの行動の真意を理解したり、ゲンドウに「父さん、話をしよう」と歩み寄ったり、旧作より他人に対して一歩前に進んだように見えた。これまで三歩進んで二歩下がってた、「三百六十五歩のマーチ」を地で行くシンジくんの一歩。

シンジくんはTVアニメ版で「僕はここにいていいんだ」と自身が存在することをようやく許し、旧劇場版で他人と自分の境も苦しみもない世界を拒絶し、たとえ苦しくても個人として他人と生きることを選んだ。どれも彼の自問自答や意志による結末で、「責任」は問われない。本作でシンジくんは、故意ではないにせよニアサードインパクトを起こしてしまった落とし前をつけるため、もう一度エヴァに乗る決意をする。辛い現実から目をそむけず、周りの人の思いを背負って責任を果たそうとするその姿を「大人」と呼ばずしてなんと呼ぶか。

思えばTVアニメが放送されてからの25年間、シンジくんたちは14歳の姿のままだった。アニメと現実の時間は違うから当たり前だけど、シンジくんたちはずっと大人になることを許されず、思春期の難しくて恥ずかしい時期の中に強制的に置かれていた。本作のラストでエヴァの呪いから解放され、少し成長したシンジくんの姿に「おめでとう」とか「お疲れ様」と言う時の気持ちに似ているけど、その一言では片付けられない感情が湧いた。少しの寂しさもあった。

シンジくんは大人になった。だから私たちも、いくら素晴らしい作品であっても、いつまでも25年前のアニメに固執しているわけにはいかないのだ。とてもありきたりな言葉で月並みだけど、やっぱりこれ以外にふさわしい言葉が見つからない。

今までありがとう。いってらっしゃい。