幸せになりたいけど 頑張りたくない

実家暮らしアラサー女のブログ。「言語化能力を鍛えるため」という大義名分で更新されるが中身はくだらない。たまにコスメ・映画レビュー。

「幸せになってね」と言われても

f:id:almostcinefil:20210326094443j:plain

彼女とはたまたま履修していた授業で仲良くなった。お互い大学3年生だった。その頃になるとみんなどこかしらのグループに属していて、新しく友人ができる機会はなくなっていたことと、「コマが空いてるから」という動機で履修を決めたことを考えると、私と彼女がグループの垣根を超えて仲良くなれたのは奇跡のように思える。

その授業ではグループで発表を行うことが多く、授業時間外に発表の準備のために何度か集まった。そのおかげか、私達はとても自然に、いいペースで仲良くなっていった。特別気が合うわけではないのに、一緒にいると落ち着いて話せて、彼女と過ごす時間が私は好きだった。彼女は自分の言いたいことをきちんと言える人で、そういう人が起こしがちなトラブルを、言い方とタイミングに配慮することであらかじめ回避できる人だった。そんな彼女がとても大人に見えて、憧れと尊敬の気持ちすら抱いていた。

彼女に彼氏ができたのは大学3年の終わり頃だった。彼女の話は彼氏とのことが多くなり、会う度彼氏に言われてうれしかった言葉や電話で話したことを聞かされた。それまで私達は何を話していたのか忘れてしまうぐらいの変化の速さだった。

彼女と彼氏は高校の同級生で、私は彼氏とは面識がなかった。自分のことのように喜びながら彼女の話を聞けていたのは「出会ってから付き合うまでに5年もかかった」というなれそれを聞くまでで、なれそめというのは大体最初の方に話されると相場が決まっている。つまり私が彼女の話を興味を持って聞けていたのは、最初の数日だけだった。のどから手が出るほど欲しい幸せを、毎日当たり前のように感じている彼女が眩しすぎて、彼女を前にするだけでじりじり焼かれる思いがした。

最初こそ素直に言えていた「うらやましい」という気持ちは、いつしか素直に認めることすら困難になり、私の心の中のじめじめした場所に押し込まれ、蓋をされ、知らない間に腐っていった。彼女と名前しか知らない彼氏の話を聞く時は、いかにタイミング良く、その場に合ったリアクションを取れるかに神経を集中させるようになっていた。彼女に「ごめんね、そういう話聞いてると自分がみじめに思えてくるんだ」と正直に言えれば、そんなことはしなくて済んだはずだ。でもそう言ってしまったら彼女の幸せを祝えず、嫉妬していることがバレるかもしれない。他人の幸せを祝えない心の狭さが露呈してしまうかもしれない。そう思ったら自分の腐った気持ちを偽りの笑顔で押さえつけている方がずっとずっとマシだった。そんなちゃちなプライドを守ることがいかにくだらないことかわかっていても、私のみじめさが人の目に触れるよりはるかに良かった。

大学の卒業式の後、彼女を含むグループと教授たちとで飲みに行った。お店を出てから一次会で帰る私は、みんなにお別れの挨拶をした。二次会に参加する彼女とは、あの授業大変だったね、とか、でも楽しかったね、とか、ありきたりなことを話した。「元気でね」と言った私に、彼女は「幸せになってね」と言った。彼女との会話で鍛え上げられたリアクションセンサーが、どうするべきか私に知らせていた。でもできなかった。こういう時、間が空いてしまうのは気まずい。とっさに「あっはっは」と声を出して笑った。

 

彼女とはそれっきりで、在学中ひんぱんにやり取りしていたLINEも、卒業を境にぷっつり途切れている。先日なんとはなしにLINEの友だち一覧を眺めていたら、彼女の名前が目に入った。彼女の名字が、名前しか知らなかった彼氏の名字になっていた。「まぁそうなるだろうな」と納得した後、「いいなぁ」とじんわりとうらやましさがこみ上げてきた。そして「直接結婚を報告されていたらどんな気持ちになっただろう」と想像しておそろしくなった。私の本当の気持ちを、彼女はずっと前から見透かしていて、だから結婚した時も連絡してこなかったのかもしれない。彼女は人の気持ちや変化にとても敏感だったから、そう考えた方が辻褄が合う。「妬んでたのも話を聞いてるフリしてたのも、全部バレてたら恥ずかしいな」と思ったけど、会っていない時間の長さが幸いして落ち込まずにいられた。

 

「幸せになってね」と彼女から言われた時、「何様だよ」と思った。「私も幸せになりたいよ」といくら冗談ぽく言おうとしても、悲壮感と彼女への妬みがにじむことがわかっていたから、私は何も言葉を返せなかった。

彼女の「幸せになってね」にどんな意味がこめられていたのか、ときどき考える。言葉通りの意味かもしれないし「仕事がんばってね」かもしれない。私が真っ先に考えた「私みたいに幸せな恋愛ができるといいね」かもしれないし、そもそも深い意味なんてないのかもしれない。なんにせよ、私が幸せそうに見えていなかったのは確かだろう。「幸せになってね」なんて、幸せそうな人にわざわざ言わない。彼女の「幸せになってね」が引っかかったままなのは、当時からずっと欲しかった幸せを今も手に入れられていなくて、どうもこれからも手に入れられそうにないからだ。

 

私には、人からもらった言葉を自分のコンプレックスを刺激する形に歪める癖がある。その癖は「卑屈」という言葉で表される。私がこの言葉を嫌いなのは、自分とこの言葉が似ているどころか私が「卑屈」そのものだからだ。何について考えても、「自分が嫌い」という結論にたどり着いてしまうのは悲しい。

彼女からの「幸せになってね」を、心からの笑顔と「ありがとう」で受けとめられるようになるのは、私も幸せになってからだろう。そんな日が来ないことを察し始めている私は、彼女から言われた「幸せになってね」を、いまだに持て余し続けている。