幸せになりたいけど 頑張りたくない

実家暮らしアラサー女のブログ。「言語化能力を鍛えるため」という大義名分で更新されるが中身はくだらない。たまにコスメ・映画レビュー。

肌荒れ・辞書・本

この頃よく肌が荒れる。おそらく原因はよく食べるようになったポテトチップスとカップヌードルと、自炊する時必ず使うバターと、毎日摂取しているチョコレートやらアイスやらの砂糖がたっぷり入った甘いお菓子と、最近ハマりはじめた冷凍フライドポテトと、要するに不摂生だ。よくわかってる。体に悪いものはどうしてこんなにおいしいんだろう。

今は人に会う予定なんかないから、肌が荒れてもあまり問題はないはず。それでも気になるのは、鏡に映った自分を見た時に納得がいかないからだろうか。こちらの理由ははっきりしていない。

 

少し前に国語辞典を買った。辞書をひくのなんて小学生以来か。辞典の種類まで明確に言う時は「国語辞典」なのに、「あることについて説明されている本」と漠然という時は「辞書」と言うのはなんでだろう。「辞典」も「辞書」も同じ意味だから別に問題はないのだけど、なんか引っかかる。そうなったのは辞書を買った影響だろうか。

私は教養がないので、他の人が10代の頃にとっくに終えた勉強を今さらやっている。「やり直している」のではなく「やっている」。これがなかなかおもしろくて、「10代の現役の時にこのおもしろさがわかっていれば東大に行けたかもしれないなぁ」なんて夢想する自分を斜め上から見下げて指を指して笑うという遊びをよくやる。「人生に『たられば』はない」とはその通りで、当時の私は音楽を聴いたり中古のCD屋さんに出かけていって何かいいものはないか物色するのが何よりおもしろかったのだから、しょうがない。夜なかなか寝つけないのに、朝になると起きれないのと同じだ。起きれない朝の眠気を前日の夜に送ることはできないし、今の「勉強っておもしろい」という気持ちを過去の自分に送ることはできない。

勉強していて、自分は全然言葉を知らないと気づいた。それで辞書を買った。今までは知らないことすら知らず、「知っているつもり」で言葉を聞いたり使ったりしていた。知らないことに気づけたことを、ひとつ賢くなったと思いたい。

勉強をしていると自分の頭の悪さにも気づく。勉強をする前は「自分はそこそこ頭がいい方」だと思っていたのだから余計恥ずかしい。もっと早くに気づきたかった。

 

図書館から借りた本を期限までに読み終えるのかわからないうちに、注文していた本が数冊届いて机の上が片付きそうにない。もはやどこから手をつけていいかわからない。

今は上海料理について書かれた本を読んでいる。読めない地名や初めて聞く料理名にいちいち苦戦するけど、自分が行ったことのない土地の食べ物についての話はおもしろい。その土地の文化がそういった食をつくるのか、それとも食が先で文化が後か。こういうことを考えるのはちょっとおもしろい。

それにしても机の上にある本がどれもおもしろそうで、どれも読み終わりそうにない。きっとこういう時に計画を立ててその通りに読み終えて期限までに返却するのが勉強ができる人で、何も考えずに気になった本をとりあえず読み始めて結局どれも中途半端に終わるのが勉強ができない人だろう。勉強を始めてからそう思うようになった。

 

読書はいつでも楽しい。勉強はわからないとイライラするけど、それでもまぁ楽しい。この間から始めたゲームはそろそろエンディングが近くなっていて、名残惜しいけどそれでもやっぱり進めたい。やりたいことがありすぎて時間が足りない。