幸せになりたいけど 頑張りたくない

実家暮らしアラサー女のブログ。「言語化能力を鍛えるため」という大義名分で更新されるが中身はくだらない。たまにコスメ・映画レビュー。

「似てる」の暴力

去年の年末、休みの日の朝。引きこもりの私はめずらしく都会の街を歩いていた。

人と会う約束をした時はウキウキするのに、いざ約束の時刻が近づいてくると憂鬱な気分が私の頭の上に雨雲のように広がり、体を重たくする。いつもそうだ。だがこの時は約束したときのウキウキ感はなく、憂鬱な気持ちがただただふくらむばかりだった。

 

「あなたと似ていて気が合いそうな子がいるから、紹介したい」

知り合いからのLINEを要約すると、そういうことだった。

知り合いは年上の気さくな女性で、誰とでも仲良くなれる、私とは正反対のタイプだった。あまり人の悪口を言わず、いつもほんわかしている彼女と私は心の底からわかり合うことはないだろう、どこかでそう思っていた。だから彼女の「気が合いそう」は正直信用できる評定ではなかった。

あまり知り合いを増やしたくない私にとって、知らない人と会うのは気乗りしない誘いだ。それなのに、なんとなくオーケーの返事をしてしまった。待ち合わせのお店までの道中、何度も吐いたため息が視界を一瞬白く濁らせるのを見て「そういえばため息が何で白くなるのか知らないな。学校で習ったっけ、勉強したこと全部忘れてる気がするな」と関係ないことを考えて気を紛らわせようとしたけど、やっぱりムダだった。

 

愛想もトークスキルもない私のことだ、きっと大して盛り上がらずに「つまらないやつ」と思われて終わるだろう。そう思っていた顔合わせは、思いがけず盛り上がった。

知り合いに感謝した。大人になるとプライベートで人と知り合う機会はぐんと減る。ましてや気の合う人と知り合う機会は。

そして先日、知り合いとその子で食事をした。

 

その食事の数日前、私はSNSで爆発的な人気を誇る美容師に初めて髪を切ってもらった。予約戦争を勝ち抜き、大枚はたいて行ってきたのだ、東京の一等地にそびえる、周りをハイブランドの旗艦店に囲まれたビルの最上階に。

以前別の美容師に、その美容師がSNSにアップした髪型の画像を見せてカットしてもらったものの、気に入らない仕上がりとなった。爆発的人気を誇る美容師は、私が気に入らなかった点を一つ一つ軽快な、迷いのないハサミさばきで解決していった。「ヘアカット」というより「魔法」だった。そして私が気に入らなかった点と理由がおおかた当たっていたのも嬉しかった。自分の観察力とセルフプロデュース能力に惚れ直した。

今回は髪の長さが足りず、したかった髪型にはできなかった。正直、見た人全員が「かわいい」とベタ褒めするほどではない。些細な変化には自分しか気づけない。でも気に入らない点を直してもらっただけでも大満足だった。髪型もメイクもしょせん自己満足だ、そう思っていた。

 

食事の場に着いてまず言われたのは「やっぱり似てるね、てゆーか同じじゃん!」だった。

確かに私と私に似ている子はとてもよく似ていた。背丈、髪の長さと色、着ている服の系統。

似ていると自分で認めていても、友達の口から発せられた「同じじゃん」に、私は傷ついた。自分の気持ちを認識することを長年放棄している私が「傷ついた」と瞬時に認識できるぐらい傷ついたのは、ほんとうに久しぶりだった。とっさに愛想笑いを浮かべた自分に、裏切られたような気がした。

 

顔、女性としての自分に埋まることのないコンプレックスを抱えながらも、高い理想を掲げている私は、現実と理想の差を埋めるべく頑張ってきた。

安くはない骨格診断を受け、袖を通すことさえ考えなかった服を何着も試着し、アクセサリーを厳選し、いつもと違う格好をしていくことに恥ずかしさを覚えながらも通勤し、何冊も買った美容本やメイク本に忠実に従い、場違いであることを痛感しながらデパートのコスメ売場でタッチアップをしてもらい、今まで買っていた倍以上の値段がする化粧品を買い集め、メイク動画を熱心に見ながらコスメ欲と予算の板挟みになり、爪の手入れを決して怠らず、今まで使わなかったヘアトリートメントを毎日使い、歩き方レッスンを受け、姿勢を何度も正し、水分補給と腹巻きを欠かさず、毎朝メイクを完璧にするため睡魔と数えきれない激闘をくり広げてきた。

 

人それぞれ努力をしていることだろう。そしてその内容も本気度合いも予算も十人十色のはずだ。だからこそ、赤の他人に「似てる。同じ」と一括りにされてしまうと、これまでの努力が全否定されたような、そんな気になるのだ。

私に似ている子がかわいくないとか、そういうことではない。相手が誰であっても「似てる」ましてや「同じ」と言われることは、自分しか知らない苦労と失敗の連続のバックグラウンドを、ほうきで一掃けするぐらいの手軽さで無視されることと変わらない。

 

多分知り合いは「髪型とか似てるね」ぐらいの意味で言ったのだろう。

そう思いながらも「似てる。同じ」と言われた瞬間生じたもやもやを拭いきれない。

上に書いたことを知り合いに話し「だから『似てる』と言わないで」と言えばいいのかもしれない。もしかしたらもう「似てる」と言われないかもしれない。そもそも、どういうつもりで言ったかわからないのだから、もう考えるのをよせばいい。

 選択肢はいくつか浮かぶが、どれを選ぶのが最善か、わからない。

 自分の気持ちを正直に伝えて「めんどくさい気難しいやつ」と思われるのもイヤだし、「似てる」と言われ続けるのもイヤだ。

一番楽なのは「もう会わない」である。これまでその選択をしてきたことは、何回かあった。自分も相手もイヤな気持ちにならず、気持ちの伝達と理解という面倒を避けられ、会えないさびしさは時間が解決してくれる。

でも私は「何があっても自分を守る」と決めた。それは、今まで放棄してきた「自分の気持ちの言語化と伝達」を始めることを意味する。

だからまた「似てる」と言われることがあれば、どうしても気になるのであれば、言おうと思う。

自分を守るための戦い、と言うと大げさに聞こえるかもしれないが、相手が誰であっても、自分のために戦える人でありたい。きっと私が昔から憧れていた「強い人」は「自分を守る覚悟を決めた人」だから。「もう会わない」という選択肢は、私のイヤという気持ちを理解してくれなかったときのためにとっておこう。

 

結局のところ、下村一喜さんの本「美女の正体」で書かれているように「自分しか持っていない唯一無二の美しさ」を見つけるのが、今後「似てる」と言われない唯一の方法だろう。情報源が美容雑誌とSNSじゃ、持っていたとしても見つけられない。

腕が確かな美容師の元に通い、プロが書いたメイク本の内容を頭に叩き込み、実践を繰り返した今でも鏡を見るのが怖い。「自分の顔」と聞いて思い浮かべるのは、個性を埋没させる流行りのメイクをした顔だ。

「自分を守る」と決めたように、「唯一無二の美しさがある」と信じて自分の顔に向き合わないといけない。「美しくなれる」というかすかな希望をまだ持っているうちに。