幸せになりたいけど 頑張りたくない

実家暮らしアラサー女のブログ。「言語化能力を鍛えるため」という大義名分で更新されるが中身はくだらない。たまにコスメ・映画レビュー。

「希望」に内含されたもの

先月からいろいろ起こっている。

父親との間にあると思い込んでいた溝が存在しないことを知ったり、長年連絡をしていない友達に連絡をとって会うことになった。

恋愛感情とは別の意味で気になる異性を思い切って誘って2人で会ったり、なかなか処分できなかったものを処分できたり、始めた仕事の給料が思いのほか良くはしゃいだ。

どれも関連のない出来事のようだし、中には関連がないものもあるけど、こうした出来事が起こったきっかけはただ一つだと思っている。

母親を「信用ならない」と思っていたのが、「もう少し母の話に耳を傾けて、私も自分の気持ちを言語化して伝えよう」と思うようになったことだ。

 

実家に帰ってきて生活習慣の違いで母と口論になることが度々あった。些細なことだったが、私の不満は募っていった。

ある時お互いの我慢が限界に達し、険悪な雰囲気になった。これまで母に言われて納得できていないことをヤケクソ気味にぶつける私に対して母は、ひとつひとつ丁寧に説明してくれた。言葉というのは大体の場面において、発した人がいろんな意味を省略・内包させている。受け手がそれを100%読み解く可能性は0に近い。母の話を聞くうち、母に抱いていた印象が「話を聞かない人」から「問いかければそれに答えてくれる人」へ変わっていった。

母親への不信感は思春期から抱いていた。それは最早呪いと呼ぶにふさわしいほど私の中にしっかと根を張っていた。その呪いが、完全にとはいかなくても少しずつとけてきた。数えてみれば人生の半分、私はこの呪いとともに生きてきたのだ。ドラマや映画ならキラキラした光が体の中から出てくるのだろうが、残念ながらそこまでの感動はない。人生の半分かー長かったなーというのが正直な感想だ。でもこれからの人生がこれまでとは確実に違う方向に向かうことは間違いない。

 

勇気を出して他人に自分の気持ちを伝えられるようになった。

行動に移すスピードも速くなった。

仕事はあったりなかったりとてつもなく不安定で、だからこそ仕事があることのありがたみを実感できている。

しんどかった正社員時代より効率よくお金を稼げていること、仕事そのものがおもしろくて仕事がある日は出勤するのが楽しみなこと、何より組織に縛られずに働けることが嬉しくて嬉しくてちょっと泣きそうになる。

学生時代、社会人が口を揃えて「学生に戻りたい」と言うのを真に受け「学校生活でさえ息苦しいのに社会人生活はどんな地獄なんだ」と内心震えていた。

思春期の、誰に対しても敵意をむき出しにして最もトガっていた頃の自分に「大人になったら今とは比べものにならないほど自由で、工夫次第で自分に合った生活をおくれるようになるから大丈夫」と言ってあげたい。

昔の自分を思い出して、あーなんでそんなことしちゃったかなーとのたうち回りたくなることもあるけど、それでも私はそんな恥ずかしい部分も含めて、生きようと孤軍奮闘していた昔の自分が愛おしくて仕方ないのだ。

やっと自分の足で立てている、人生の主導権を自分が握っているという実感はとても心強く、生きてて良かったと少し思える。

これを希望というのはあまりにありきたりだけど、それでもいいかな。そう思うぐらい今の私は光を信じられる。