幸せになりたいけど 頑張りたくない

実家暮らしアラサー女のブログ。「言語化能力を鍛えるため」という大義名分で更新されるが中身はくだらない。たまにコスメ・映画レビュー。

バカにされた時に考えていること

自慢じゃないがよく人になめられる。

いかにも気弱でイケてない地味人間なので、まぁわかるっちゃわかる。

実際何か言われても言い返したりしない。自分の感情を無視して努めて鈍感になったツケで、何か言おうとしても言葉が頭の中でまとまらない。言われて「あぁそうかもな」なんて思ったりもする。

自己主張もほとんどしない。人の視線を浴びるぐらいなら自分の存在を認識されない方がマシだ。

必要以上に人と争いたくないし、できるなら感情を乱高下させたくない。平穏に生きていきたい。平穏に生きていけるなら、多少後味悪くても言いたいことを飲みこむ方を選ぶ。そうしたら大抵のことは荒波をたてずに去っていく。

それで丸く収まっても、一方的に言われたことに対する悔しさと、もう言い返せないタイミングになってから湧いてくる言いたかったことを消化できないフラストレーションで私の心は徐々に歪み、元々美しくなかった性根が最早取り返しのつかないことになっていると昨日やっと自覚した。

何があったかというと、ときどき顔を合わせる人に「おや?なぜ今わざわざそんなことを言ったのかな?」ということを言われた。それを言った意図は本人にしかわからないし、私がどう考えようと推測の域を出ない。頭ではわかっているのに「いや、きっとバカにされた!」ともう一人の私が大声を張り上げて困った。きっとこれが“プライド”というやつの正体だろう。「せめてバカにされたことぐらいは気付きたい!」という謎の見栄を無視することができず良いことなんか一つもないとわかっているのに疑心暗鬼にまんまと囚われた。そうなるとあとはネガティブ一行通行、思い込みは加速してとどまることを知らない。

しかしふと思った。

 

「この人、私みたいな何の取り柄もない、勝ったところで別に手柄にならない人でさえバカにしなきゃ自尊心保てないんだろうな」

 

その瞬間相手に対するどろどろの感情がすぅ…っと音もなく引いていき、代わりに憐憫が文字通り波のように押し寄せてきた。

中学の国語の先生が「『かわいそう』という言葉は、相手を下に見る言葉だから使わない方がいい。使うとしても『不憫』と言いなさい」と言っていたのを思い出した。当時も今も完全に理解している自信はないけど、妙に納得したのでよく覚えている。

相手に対する感情が100%の「かわいそう」になった瞬間、いよいよ私の性根も取り返しがつかないところまで歪んだなとハッとしたのである。まぁ世の中キレイごとだけじゃやっていけないし、頭の中は自由なんだからこの程度でめんどくさい感情がサッパリ引いてくれるならいいもんだ。

必要以上に自分の思っていることを口にしたり、他人を攻撃したり陰口叩く人の気持ちはやはりわからないしこれからもわかりたくない。そういう他人と自分は違う種類の人間だと線引きしているけど、他人を抱えた不満のはけ口にしているのは同じだし、表面に出しているだけあちらの方がなんとなく健全に思える。

今年の抱負として「自分の考えや気持ちを言語化し、相手に伝える」と掲げたものの、今年半分が終わった現時点、達成できているようには思えない。というかほぼ忘れていた。

自分の考えや気持ちを言語化するには「認識」という作業が必要になる。これが思った以上に難しくて、今自分は嬉しいのか、悔しいのか、よくわからない時の方がほとんどだ。

けど認識しなければ言語化もできなくて、言語化できなければ相手に伝えることもできない。言語化できたからといって伝わるわけじゃないけど。そうやって先回りの言い訳ばかり用意して、怠惰に生きてきたツケが私の性根を歪ませたんだなーと今思った。

気持ちを新たに頑張ろう。もう7月だし。