幸せになりたいけど 頑張りたくない

実家暮らしアラサー女のブログ。「言語化能力を鍛えるため」という大義名分で更新されるが中身はくだらない。たまにコスメ・映画レビュー。

強制される挨拶が好きじゃない

社会において必要不可欠とされている挨拶というものが昔から苦手だ。

この頃では嫌悪感さえ芽生え始めている。

この年末の時期は「今年はお世話になりました。来年もよろしくお願いします。よいお年を」と言うのがお決まりになっている。

1年という決して短くはない年月の区切りが必要なのはわかるが、そのお決まりの言葉を言うのが、ほんの少ししんどい。

年末の挨拶に限らず、お決まりの言葉を言うのが暗黙のルールとなっていて、そのルールを守らなければ「非常識」と見なされるのが、私にとって結構な負担なのである。

私は基本的に自分が思っていることしか言いたくないし、挨拶もそうだが世の中で常識・当たり前とされていることを忠実に守ることができない。

「何で今こんなことをしなきゃいけないんだ?」といちいち考えてしまう。

「そういうもんだから」の一言で納得できないのだ。

ここまで書いていて我ながら面倒くさいやつだなと思うが、もうそういう人間だからしょうがない。

ただそんな面倒くさいやつでも他人と関わらずに生きていくことは不可能なので、内心首を傾げながらもそれなりの行動はする。

(余談だがこの行動の根底にある精神を「社交性」というのなら社交性なんてクソくらえだと思う)

つい先日、仕事納めだったので退勤時間が近づく中「挨拶ってみんなにしていかなきゃいけないのか?偉い人だけでいいのか?」と悩みながら雑務を片付けていた。

 

前いた会社では退勤時間のベルが鳴ると一人一人挨拶をして回っていた。

新卒でその会社に入った私は「こうしなきゃいけないんだな」と思い、挨拶して回った。しんどかった。

そんな気遣いをせずにぶっちぎって無視して定時でさっさと帰っても良かったんじゃないかと今では思う。

多分私のように「しんどいな」と思いながら挨拶をしていた人もいるだろう。

それでも周りに合わせていたのは「そういう空気」があったからだ。

あの空気に逆らうのと、周りに合わせるしんどさを天秤にかけたら周りに合わせた方がまぁラクではある。

ただラクな方を選んだから負担がゼロになるというわけではなく、何かしらすり減っていく。

前の会社で私が身をもって経験したのはそういうことだった。

 

仕事納めの日、ふとそんなことを思い出した私は仕事を片付け定時にタイムカードを打刻した。

ドアの前で「お疲れ様です!みなさん、よいお年を!」といつもより大きめの声で挨拶してフロアを出た後「さすがに偉い人に直接挨拶しなかったのはまずかったか?」という思いがよぎったあたり、チキンで情けなかったが、ひとまずはこれで良かったんだと思う。

私が思っているほど周りは私のことを気にしていないし、以前と比べてしんどさは圧倒的に少なく、精神的にすり減ってもいない。

いい年が越せそうだな、と初めて思えた。