「私は表現者になれない」

久しぶりに風邪をひいた。数年ぶりかと思ったけど、数ヶ月ぶりだった。

昼過ぎから鼻水が止まらなくなり秒単位で加速するのどの痛み、悪寒とだるさと熱が徐々に襲いかかってきた帰り道はなかなかハードだった。

食欲も湧かず、シャワーを浴びて20時には布団に入ったものの、どんどん目が冴えるばかりなので眠くなるのを待つことにした。多分ブログなんてものはこういう時に書くんだと思う。

 

 

先日、人前で自分について話す機会があった。

人の視線を浴びることが好きでない私にとって苦痛としか思えない時間だったけど、いろいろ考えた末自分のことを偽らずに話すことにした。

当日原稿を書いている最中、過去の自分の行動の真意が少しずつ明らかになっていった。いざ人前で話し始めると、それを覆っていた霧がみるみる晴れていった。

 

「私は表現者になれない」

 

自然と口をついて出た言葉に、他人事のように「そうか私は表現者になれないのか」と思った。人前で話すことで言葉は真実味を持ち、骨と変わらないぐらいの強固さで私の中に植えつけられた。

それから数日経って、「われながらよく人前であんなに話したな」という自画自賛、話した内容、「私は表現者になれない」という言葉が自然と頭の中で繰り返されるようになった。その再現テープはやがて私の涙腺を刺激し始めた。私は表現者になれないのだ。

 

具体的なモデルはいないものの、気づいた時には「表現をすることでようやく生きてこれた」という人に憧れていた。

その一方で、私は表現をしなくても何不自由なく生きていける人間なのだと認めざるをえなかった。表現より生活が大事なのだ。そういう人間である以上、私は表現者になれない。

それをわかっていても、表現という分野で何かしら成し遂げなければならない。それが表現の世界に足を突っ込んだ者の宿命であって、そう簡単に足を洗える世界であってほしくないとも思う。

他人の目に私は愚かに映るかもしれない。ただ笑われて傷ついて終わるかもしれない。けれど最早、「成し遂げられる」と信じるしかない。ふてくされていても何も変わらない。自分で自分を奮い立たせなければならないのだ。地獄に突き落とされても自力で這い上がってカムバックを果たせるような、そんな強い人間にならなければならないのだ。なりたいものになれなくても。

紙の月

ここ最近、邦画をよく観るようになった。

洋画だと字幕ばかり読んでしまって肝心の映像にあまり集中できないという情けない理由もある。

正直邦画に対するイメージが「名作もあるけど9割マンガ原作の駄作」だったのだけど、全然そんなことない、おもしろそう!という映画をよく見かけるようになった。

今回の「紙の月」も期待以上のおもしろさだった。

 

 

 

主人公・梅澤梨花は自分に自信がない。他人から認められたい・必要とされたいと思っている。自尊心が決定的に欠けていて、なにをしても満たされない。

一見大人しそうで夫にも従順、ノーと言うことができない。だが他人に認められるためならあっさり顧客のお金に手をつけてしまう。

彼女が横領に走るときのノイズのような音も良かった。

「ちょっとぐらいいいよね」「バレないよね」

そんな言葉が頭に浮かんでいる時、血液はこんな音を立てながら体内を走っているのかもしれない。

把握できないほどの金額を使っても彼女は満たされない。彼女が欲しかったものはお金じゃないのだ。

 

大島優子の演技が自然で驚いた。見るからにイマドキでかわいくて、要領も良くしたたかな女の子の表情、リアクションをすんなり引き出していた。AKBを卒業してからあまり見ていない気がするが、他の役をどのように演じるのか興味が湧いた。

小林聡美の演技もよかった。

かもめ食堂」や化粧品のCMからのほほんとしたイメージを抱いていたが、自分にも他人にも厳しい役を頭のてっぺんからつま先まで演じきっていた。

正論を言うけれど偉ぶらず、仕事に対する姿勢もぶれず媚びは売らず、おかしいと思ったら相手が上司であれもの申す。

目は鋭く、刺々しさはないが周りを緊張させる口調に「カッコイイけど自分の上司だったらしんどいな〜…」なんて思うぐらいリアルだった。

そんな厳しい彼女は徹夜をしてみたいと言う。

「したことないの。翌日に響くから」

なんとも彼女らしい理由だ。同じく梨花も徹夜をしたことがないと言う。

終盤の梨花と隅の会話はとてもいい。人が本当に自由になれるのは頭の中だけだと思い知らせてくれる。生きている以上、何かしら縛られ制限される。幸せもいつかは必ず終わる。それが当たり前の世界なのだ。だが梨花はそんな世界に思い切り風穴を開けてくれる。その抵抗は清々しく、爽快だった。

 

エンディング・テーマも良い。曲名は「Femme Fatale」。 正に梨花のことだ。

映画の本編とは関係ないが、おぉ!と思った演出があったので書き記しておきたい。

終盤、隅が話している最中梨花が言葉をかぶせてくるシーンがある。隅は驚きながらも口の中でモゴモゴ言葉を続けるが聞き取れない。

セリフにセリフをかぶせる時、かぶせられた方が相手がかぶせてくる直前に不自然に言葉を切ることが少し前から気にかかっていた。実際にはかぶせられた後、少し言葉が続くはずだ。

こういう細かい演出がされている映画を観ると、嬉しくなる。

「希望」に内含されたもの

先月からいろいろ起こっている。

父親との間にあると思い込んでいた溝が存在しないことを知ったり、長年連絡をしていない友達に連絡をとって会うことになった。

恋愛感情とは別の意味で気になる異性を思い切って誘って2人で会ったり、なかなか処分できなかったものを処分できたり、始めた仕事の給料が思いのほか良く個人事業主としてやっていけるとはしゃいだ。

どれも関連のない出来事のようだし、中には関連がないものもあるけど、こうした出来事が起こったきっかけはただ一つだと思っている。

母親を「信用ならない」と思っていたのが、「もう少し母の話に耳を傾けて、私も自分の気持ちを言語化して伝えよう」と思うようになったことだ。

 

実家に帰ってきて生活習慣の違いで母と口論になることが度々あった。些細なことだったが、私の不満は募っていった。

ある時お互いの我慢が限界に達し、険悪な雰囲気になった。これまで母に言われて納得できていないことをヤケクソ気味にぶつける私に対して母は、ひとつひとつ丁寧に説明してくれた。言葉というのは大体の場面において、発した人がいろんな意味を省略・内包させている。受け手がそれを100%読み解く可能性は0に近い。母の話を聞くうち、母に抱いていた印象が「話を聞かない人」から「問いかければそれに答えてくれる人」へ変わっていった。

母親への不信感は思春期から抱いていた。それは最早呪いと呼ぶにふさわしいほど私の中にしっかと根を張っていた。その呪いが、完全にとはいかなくても少しずつとけてきた。数えてみれば人生の半分、私はこの呪いとともに生きてきたのだ。ドラマや映画ならキラキラした光が体の中から出てくるのだろうが、残念ながらそこまでの感動はない。人生の半分かー長かったなーというのが正直な感想だ。でもこれからの人生がこれまでとは確実に違う方向に向かうことは間違いない。

 

勇気を出して他人に自分の気持ちを伝えられるようになった。

行動に移すスピードも速くなった。

仕事はあったりなかったりとてつもなく不安定で、だからこそ仕事があることのありがたみを実感できている。

しんどかった正社員時代より効率よくお金を稼げていること、仕事そのものがおもしろくて仕事がある日は出勤するのが楽しみなこと、何より組織に縛られずに働けることが嬉しくて嬉しくてちょっと泣きそうになる。

学生時代、社会人が口を揃えて「学生に戻りたい」と言うのを真に受け「学校生活でさえ息苦しいのに社会人生活はどんな地獄なんだ」と内心震えていた。

思春期の、誰に対しても敵意をむき出しにして最もトガっていた頃の自分に「大人になったら今とは比べものにならないほど自由で、工夫次第で自分に合った生活をおくれるようになるから大丈夫」と言ってあげたい。

昔の自分を思い出して、あーなんでそんなことしちゃったかなーとのたうち回りたくなることもあるけど、それでも私はそんな恥ずかしい部分も含めて、生きようと孤軍奮闘していた昔の自分が愛おしくて仕方ないのだ。

やっと自分の足で立てている、人生の主導権を自分が握っているという実感はとても心強く、生きてて良かったと少し思える。

これを希望というのはあまりにありきたりだけど、それでもいいかな。そう思うぐらい今の私は光を信じられる。

白ゆき姫殺人事件

Amazonプライムに入会してからというもの、気になっていた映画を家から一歩も出ずに見られるようになって嬉しい。

「映画はスクリーンで観ないと観たことにならない」と今でも思っているけど、もうしょうがないかな…と自分の怠惰に白旗をガンガン振っている。

「気になるけど借りるほどじゃないんだよなぁ…」という映画を気軽に見られるのも嬉しい。

今回観た「白ゆき姫殺人事件」も気になるけど借りるほどじゃない映画のうちの1つで、正直あまり期待せずに観始めたのだがこれがおもしろかった!

 

※以下ネタバレ含みます

 

 

美人OLが惨殺され、事件後行方をくらましている被害者同僚・城野美姫に疑惑の目が向けられる。

城野が犯人かどうかわからないうちから、彼女のイメージの断片が誰にも止められない速さで拡散され犯人に仕立て上げられていく様は恐ろしかった。

ネットの利点として匿名で情報発信できる点が挙げられる。匿名という盾はとても心強いように思えるが、何がきっかけで壊れるかわからない。投稿が炎上し、投稿者の本名、顔写真、学歴があっという間に明かされた例は枚挙にいとまがない。

拡散を速めるのは情報の正誤ではなくゴシップ性だ。どれだけ楽しませてくれるか、おもしろおかしい気持ちにさせてくれるか。この映画のように、被害者が赤の他人であれば殺人事件さえエンターテイメントになるのだ。「かわいそう」と画面を見つめる瞳の奥には好奇心の炎がめらめら燃えている。

 

城野含め「いるいる」と頷きそうになるぐらいリアルな登場人物も良かった。

女が女をバカにする時の一目ではそうとわからない蔑み、相手を思っているように見せながら一番相手の嫌がることをする陰湿さ。「嫌がらせだと思ってしまう私が悪いのか?」と思わせる線引きが絶妙でとにかくうまい。自分は悪者にならずに相手を悪者にする術を心得ている。

城野の知人による証言の再現映像も、証言者によって細かく異なるのもおもしろい。城野が妄想好きと判明した後では、城野の手記もどこまで真実か疑わしい。何が真実かなんて、最早当事者にもわからないのだ。みんな自分の見たいように物事を見て、信じたいものだけ信じているのだ。

終盤「身勝手な容疑者」という言葉が出てくる。ワイドショーの製作陣、出演者、ネットでつぶやく匿名に守られた人々も、言わずもがな身勝手だ。だがその身勝手な評価に踊らされているのも、同じ身勝手な人々だ。散々好き勝手言っておきながら少し時間が経てばカンタンに忘れるのだ。城野に会っても気づかなかった赤星のように。

陰口の弊害

もう随分前になるが一緒に働くのがしんどかった人がいる。

恐らくその人にとっても、私と働くのはしんどかったと思う。

そこを辞めてからは会っていないしこれから会うこともないだろう。連絡先も知らない。

なのになぜかときどき思い出して、あぁ…と嫌な気持ちになることがある。それもいい加減しんどいので、ここに書いて消化させようと思う。

 

まずその人の何が嫌だったかというと、以下の2点に尽きる。毎日聞かされる同じ職場に勤めている人の悪口と、絶対に自分が正しいという思い込みによるこちらの行動の監視と口出しである。

固定メンバーが出入りする環境で、陰口が言われていない所なんてごく僅かだろう。私はほとんど見たことがない。毎日顔を合わせていたらなにかしら思うところが出てくるし、「お互いの知り合い」という話題はまぁまぁ盛り上がる。わざわざ相手に言わずに不満を解消できる、平穏な解決方法とも言える。

しかし陰口には必ず弊害がついて回る。うっぷんを手軽に晴らせるメリットと天秤にかけても、後々弊害の方が大きく出るんじゃないかと思う。

もちろん私も陰口を叩いたことはある。数え切れないほどある。そんな私が偉そうに言えることじゃないのは百も承知だ。ただ今思い出してみても、陰口ばかりで話が盛り上がった相手との関係はすぐに終わったし、心を許せる相手にはならなかった。それに何より、陰口を叩いていた時の自分はさぞかし醜い表情をしていただろうなと思う。

 

その人は話しながら仕事をするのが好きなタイプだった。1つのことにしか集中できない私にとって話しながらの作業はなかなか辛いもので、その話題が陰口となるとさらにぐったりした。ちょっとしたものの言い方、作業手順の違い、誰でもしうる勘違いなど、陰口の内容はバラエティ豊かでとても細かかった。よくまぁそんなことを覚えているなと感心させられるぐらい細かかった。

もちろん他人のちょっとしたことにイラついたり傷ついたりといった経験は私にもあるから、気持ちはよくわかる。ただそれが会う度、一緒にいる時間ずっと聞かされるとその人への印象は自然と悪いものになってくる。その人のことを思い出す度「よく陰口叩いてたな〜」と思う。「ああいう人はどこへ行っても、何かしら不満を見つけては陰口を叩くんだろうな」とも。

その人自身は悪い人ではなかったし、頭の回転が速くて気が利く人だった。何気ない日常の一コマをおもしろおかしく話して笑わせてくれたこともあった。陰口さえ聞かされていなかったら憧れていたと思う。そのぐらい魅力的な人だった。それが陰口によって「思い出してもいい気持ちにならない会いたくない人」になってしまうのはもったいない。別に私にどう思われようが構わないだろうが、寂寞というのはこういう気持ちを指すのかもしれない。できれば知りたくなかった。

そしてその陰口によって「きっと私も言われてるだろうな」と思うようになった。つまらないミスをする度「誰かに言われる」と頭をよぎった。その人と働く時はいつも緊張していた。とても居心地がいいとは言えなかったし、その人と一緒に働く日は前日から憂鬱だった。

 

だが仕事場で重視されるのは、仕事ができるかできないかだ。その人は私とは比べ物にならないほど仕事を速くこなした。その仕事場で1番か2番というぐらい優秀だった。そのぐらいの人でも間違えることはあるし、人によって仕事のやり方や順序というのは違うものだ。他の人から見たら非効率に思えても、当人にとってはやりやすいということもある。よほどの影響を与えない限り各々のやり方でいいんじゃないかと私は思うのだが、その人はそうではなかった。仕事ができる故なのか、自分のやり方が正しいからと他人のやり方を認めることができなかった(ように見えた)。

今であれば「私はこっちの方がやりやすいので」と言えるのだが、当時の私にはできなかった。もめるのがめんどくさかったし、険悪な雰囲気になるのが怖かったのだ。細かいところまで口を出されるのが嫌いな私にとってこれが何よりキツかった。それほど私のやり方が目に余ったということなのかもしれない。アドバイスをしてくれていたのかもしれない。その可能性を考慮してもうっとうしいとしか思えなかったのには理由がある。

いくら優秀な人であっても、私のやり方がその人の目に余るのと同じように、他の人から見たら「それOKなの?」と思うようなやり方で平然と仕事をしていたりする。例え話だが「備品は大事にしてね!」と言っておきながら備品の上にのって作業していることがあった。目撃した時はドン引きした。そういう場面に遭遇する度、その人に口出しされても真面目に聞こうという気がどんどん削がれていった。説得力がなくなっていったのだ。

私もその人同様、そんなどうでもいいことをなんでしばらく経った今も思い出せるのかと言うと、その人が陰口を叩いていたからである。「あんなに陰口叩いてるけど、自分がしていることの方がよっぽどじゃん!」という衝撃が強かったのだ。陰口を叩くとは、自身の評価を下げつつハードルは上げるウルトラマゾヒスティックな行為なのだ。本当に良いことなんて何一つない。その人にとっても、周りにとっても。

陰口を叩くな、なんて言うつもりは毛頭ない。ただ陰口を叩く場所を選んでほしい。それが職場の人の陰口であれば、職場と無関係の所で言ってほしい。それこそTwitterとかいいんじゃないかな。Twitterやってない人はブログ開設して、こんな感じで吐き出すのもオススメだよ。

キャロル(Carol)

※少々ネタバレを含みます

 

ルーニー・マーラが好きだ。大好きだ。

ドラゴン・タトゥーの女」を観て以来彼女の虜だ。

彼女が出演すると知って「her 世界でひとつの彼女」を観に劇場まで足を運んだ。映画は「ラブプラス乙」の一言で済むものだったが、やっぱり彼女はかわいかった。高いチケット代は映画にではなく、ボブカットにした彼女に払ったようなものだ。

 

さて今回動画配信サービスで観た「キャロル」も申し分なくかわいかった。

彼女が演じたテレーズという女の子はあまり表情豊かなタイプではない。にも関わらず、彼女がどんな気持ちでいるかは不思議と伝わってくる。恋人のリチャードといてもあまり楽しそうではなく、話をしながら頭の中では別のことを考えていることも、職場でかぶらなければいけないサンタの帽子を馬鹿げていると思っていることも、なんとなく伝わってくる。とても正直なのだ。

ルーニー・マーラの演技力が真価を発揮するのは、キャロルを見つめる時だ。顔全体に僅かな緊張が走り、目が輝きだす。キャロルが何を考えどんな気持ちでいるのか、見極めようとするかのように。

もうね、健気。かわいい。抱きしめたい。

けれど彼女は自虐的なセリフを口にする。

 

「自分の食べるものさえ自分で決められない」

「自分がどうしたいかもわからないのに、全てのことに“イエス”と答えてきた」

 

確かに他人を勘違いさせてしまうような場面もあるが、彼女は一度も嘘をつかなかった。恋人との欧州旅行をキャンセルしてキャロルと旅に出ると決めた時も、恋人に正直に話した。ごまかすこともできたのに、キャロルに対する気持ちまで話した。

彼女が自分にとって大事なこと・大事でないことを判断し選択できるのは、自分の心に正直に生きているからだ。周りの大事な人はもちろん、大事でない人に対しても誠実だ。媚びているというのとは違う。自分を大事にしている人は、周りにいる人も大事にできるのだ。

「人は理由もなく人に惹かれる」というセリフも出てくる。もちろんそれも正解だし、キャロルとテレーズが惹かれ合う理由を解明したいわけでもない。

だがキャロルがテレーズの生き方と態度に惹かれたのは間違いない。終盤、彼女が自分らしく生きると決意できたのはテレーズと出会ったからだ。

 

映画全体の構成もいい。キャロルとテレーズの再会から始まって、2人の出会いから別れ、それを経て見せられる再会シーンはこちらまで緊張する。キャロルの誘いを断ってパーティに参加している間、テレーズがキャロルのことを考えていたことも充分すぎるほど伝わってくる。

再会時のルーニー・マーラの表情もいい。少し怒っていて、それを隠しきれていない仏頂面は彼女の若さを引き出している。テレーズの心境は、再会できた嬉しさと何も言わずに連絡を絶たれたことへの怒りと、相反する感情が同居した複雑なものだったろう。何もなかったかのように感じさせるキャロルの大人の余裕に苛立っていたかもしれない。感情に流されかけたものの、選択を誤らなかったのはテレーズが自分の心に正直に生きているからだ。

 

テレーズは間違いなく魅力的な女の子だ。

ドラゴン・タトゥーの女」のリスベットもとんでもなく魅力的だ。好きなヒロインダントツのNo.1だ。

果たしてルーニー・マーラ以外の女優が演じても、ここまで魅力的なキャラクターになっただろうか?単にルックスが私好みという点もあるとは思う。だがルックスだけで演じる役全てが魅力的になるとは思えない。さすがにそこまで面喰いじゃない(と信じたい)。

綺麗でかわいい女優さんなんて山ほどいるが、彼女は別格だ。見ているだけで幸せな気持ちになる。恋してるみたいだ。

記憶の中の「オリエント急行殺人事件」

公開されてからだいぶ日が経っているが「オリエント急行殺人事件」を観てきた。

小学生か中学生の時に読んだこの映画の原作は、その後の私の人生の行き先に深く関わっている。

そんな思い入れの深い作品を前日に予約したものの、交通機関の遅れのため映画館に着いたのは上映開始時間を20分以上過ぎてからだった。

もしかしたら序盤で後半に繋がる伏線があったかもしれない、そもそも私にとって大事なこの作品を途中から観ていいものだろうか、死ぬほど後悔することになるんじゃないかと映画館のロビーで5分ほど逡巡し、結局観ることにした(時間通り席に着いていた方々には申し訳ないことをした)。

 

容疑者全員にアリバイがある状況で、ポアロは消去法によって推理を進めていく。

当てはまらないものから一つずつ消していくこの消去法は、それまで私が読んでいた推理小説の、犯人に繋がる証拠や証言によって事件が解決する王道パターンとは違う道を辿っていて、非常に新鮮に映った。

こういうものごとの決め方があるのかと学んだ私は、何かを決めなければいけないけど決められない時、この方法を使おうと思った。

そしてその時は思っていたよりすぐやってきた。中学卒業後の進学先を、私は消去法で決めた。

 

私にとって「オリエント急行殺人事件」は消去法を教えてくれたいわば教科書であり、小説という枠におさめることができないほどのものだ。

そう記憶していたのだけど、映画では消去法の「しょ」の字も出てこなかった。

原作を読んだのは10年以上前だし、私の記憶が確かかと言われるとあまり自信がない。「消去法」を初めて聞いたのは数学の授業だったかもしれない。

原作を読み直してみなければそれはわからない。

けどもし違っていたらと考えると、この記憶のままでとどめておきたい気持ちの方が強い。

私には「自分の人生を自分で見つけたものによって進めてきた」という誇りがあって、それはこれまでの私を支えてきたしこれからの私にも必要なものだ。

それを崩したくないという気持ちと、真実を確かめたいという欲求の板挟みになるなんて思いもしなかった。

私にとって映画は、映像作品というより自分との関わりや価値観を再認識させてくれるツールとしての役割が強いのかもしれない。

 

終盤、ポアロが最初から事件の全貌を知っていたとしか思えない推理を披露している最中に思ったことは「期待しすぎて映画のチケットを無駄にしなくて良かった」だった。

映画版「オリエント急行殺人事件」は、登場人物が多いミステリー映画は推理以外の視点で観た方がいいという気づきをくれた。

こんなはずじゃなかったんだけどなぁ。