ブリッジ(The Bridge)

自殺の有名スポット、ゴールデンゲート・ブリッジに1年間カメラを設置し、身投げを決行する人たちを捉えたドキュメンタリー。欄干を越えた後も躊躇するように佇む人、しばらく海を眺めた後欄干に立ちそのまま頭からダイブする人、様々である。時折のどかな日常風景(家族連れやスケッチをする人々など)が映し出されるが、背景に橋があるせいでどうしても死を意識させられる。

 

帰らぬ人となった人たちは、精神病を何年も患っていた人、「死にたい」と口癖のように言っていた人たちがほとんどだ。しかし「彼は自殺するタイプじゃないと思っていた」と証言されるような、人と関わるのが好きだった人もいる。

恐らく「自殺する/しないタイプに分かれる」という考えは誤りで、「誰にでも自殺をする可能性がある」と考えるべきだろう。 

 

生還を果たした人は「橋から手を離した瞬間、死にたくないと思った」と語っている。

彼は誰かに止められるのを避け、確実に死ぬため、欄干に手をかけそのまま頭からダイブしたという。もしその場面を見ていたら「よほど死にたかったのか」と思っただろう。しかし少しでも生還の可能性を上げるため、水面に落ちるまでのわずかな時間で彼は体勢を変え、足からダイブすることに成功した。

本物の自殺の瞬間はショッキングではある。しかし、その人の人生最後の瞬間を見たからといって、何を考えて自殺に至ったのか、最後の最後まで死を望んでいたのかまではわからないのだ。

 

ラストのエンドロールでは、2004年に橋から身投げした人の名前と日付が表示される。

死を悼むようで感動すら覚えるが、それはその人たちが私の知らない人だからであって、これが自分の知り合いや身内ならこんな感情には到底ならないだろう。死をロマンと結びつけられるのは、「死者が知らない人」というが前提が必要だ。

 

鑑賞中、中学時代の出来事を思い出した。

校舎の4階の窓から地面を友達となんとなく眺めていた時のことだ。

最初は自分たちがいる所と地面の高低差に恐怖を感じていたが、見慣れてくると「案外地面って近い気がする、落ちても大丈夫かも」なんて思えた。ちょうどそう思った時、友達も「なんかずっと見てると落ちても大丈夫な気がしてくるね」と言った。

自殺を思いついて行動に移すまでのプロセスも、これに近いんじゃないかと思う。

自殺を考えるきっかけは些細なことであっても、自殺についての思考が毎日繰り返されることで、自殺という行為が当たり前に感じられて、自分の死に対する感覚が麻痺してしまうんじゃないだろうか。慣れというのは怖いもので、死にも適用されるのだ。

  

この映画から「自殺は周りの人を悲しませるからよくない、やめよう」といったメッセージは感じられない。よく自殺について考えていた私はその点に好感を抱いた。自殺未遂といえるほどの行動を起こしたことはないし、私が常日頃と言ってもいいぐらい自殺を考えていたことを誰も知らない。自分が人生を終える瞬間を妄想していると安心さえした。

私の場合この映画に出てきた人たちのように、精神病を患っていたり失恋を経験したばかりだったり、親に愛されている実感がないというわけではない。ただただ面倒くさいのだ。

朝起きて身支度を整え食事をし、その後片付けをし仕事や予定に間に合うよう家を出る。

仕事先で大勢のよく知らない人たちと同じ室内で(学校も会社も私は大嫌いだ。息が詰まる)、突き詰めて考えればこんなことしなくても何とかなるんじゃないかと思える仕事に1日の時間を費やす。 

家に帰った後は食事をとり、食器と家事を片付ける。

清潔であるために風呂に入り髪を乾かし、明日に支障が出ないよう就寝する。

こんなことをあと何十年も続けていくと考えただけでクラクラしてしまう。特別やりたいことや会いたい人がいない私にとって、死は救いですらある。私のように死や人生の終わりに救いを見いだす人が、なにがなんでも生にしがみつきたくなるほどの希望を他者から与えられるなんて到底信じられない。自殺が個人の問題として片付けられがちなのは、どうやって生きるかが結局その人自身の意思によるところが大きいからではないのか。

他者に救われた経験はあるし、自殺志願者を止める術がないとは思わない。けどその中に「死にたい」という欲求を根本から変えるほど画期的なものが、果たしてあるだろうか。私がこう考えてしまうのは「現代の孤独を抱えているゆえ」の一言で片付けられるのかもしれない。

 

怒り

吉田修一原作、李相日監督の「悪人」は劇場で観ることができなかった。

興味はあったものの、当時の私にとって映画館に足を運ぶという行為はハードルが高かった。

公開終了してから数年後、DVDをレンタルして映画館に足を運ばなかったことを後悔した。

「悪人」には妻夫木聡柄本明といった映画に疎い私でも知っている俳優が出ていたが、これまでに見たことのない顔をしていた。

「目の前にいる人に言葉にならないほどの感情を伝えようとする時、人の顔はこんなに変わるのか」と驚いた。

「次、李監督作が公開されたら、絶対劇場で観る」と誓った。

 

念願かなって公開初日(2016年9月17日)に観ることができたにも関わらず、こうして感想を書くのにずいぶん時間がかかったのは、ある暴力シーンによる無力感のためだ。

原作はフィクション、当然映画も作り物である。

しかし、この映画の登場人物と全く同じ暴力を受けた被害者が現実に存在しており、新たな被害者がいつ生まれてもおかしくないという意味では現在進行形のノンフィクションだ。

この暴力をなくそうと行動している人々もいる。

にも関わらず、暴力の根源は今も存在し続けている。

助けたいと思いながらも「どうせ変わらない」と諦め、助けるためのことは何もできず、ただただ凄惨な暴力を目の当たりにした無力感を、今も引きずっている。

 

あらすじ

都内で、ある夫婦が残忍に殺された。

現場には被害者の血で書かれた「怒」の文字。

容疑者・山神は逮捕されておらず、千葉・東京・沖縄にそれぞれ身元不詳の男が現れる。

千葉の漁港で「田代」と名乗る男が働き始め、東京に住む有馬はハッテン場で出会った「直人」と住むようになり、沖縄に引っ越して来たばかりの泉は「田中」と親しくなる。

犯人が誰かは終盤までわからないため、観客は田代・直人・田中を信じたいと願う愛子・有馬・辰哉に感情移入しながら観ることになる。

指名手配の顔写真が絶妙に作られており、松山ケンイチ綾野剛森山未來という決して似てはいない3人を重ねられる顔になっている。

 

信じることは難しい、と言われがちだがそれは「この人を信じよう/信じたい」と意識した場合に限定されると思う。

気づいたら相手のことを信じていたというのがほとんどではないだろうか。

信じていたことに気づくのは、相手に裏切られたり、相手が予想外の行動や発言をした時だ。

そして、信じている/信じていないの境界線は、自分の秘密=裸を相手に見せられるかどうかだと思う。

みっともない、格好悪くて恥ずかしい自分を見せているのだから、相手も裸になってくれているだろうと思い込む。

しかし、相手は裸に見える服を着ているかもしれない。

相手が本当に裸かどうかを確かめる術はなく、「相手も自分と同じように裸を見せてくれている」と信じるしかないのだ。

信じることはリスクが高い上に保証もない。

あらかじめ相手と自分の間に線を引いてしまえば、裏切られることも傷つくこともない。

けれど孤独は癒せない。

 

 

以下、少々のネタバレを含みます。

犯人や結末は明かさず、この感想を読んでから劇場に行っても楽しめるよう配慮して書いてます。

 

 

 

 

 

 

 

千葉 田代

千葉では親子間の信頼関係にスポットライトが当てられる。

生活を共にし、外部の人間の目には触れない短所も長所も知っている。

長い間一緒にいれば、自然とお互いに信頼が芽生えると思いがちだが、果たしてそうだろうか?

家族であれ親子であれ、心の底から理解し合えることは稀だ。

それなのに面と向かって言えない考えや不安は、案外伝わってしまう。

 

親であれば子を思い、心配するのは当然だ。

「よかれと思って」

善意が事態を明るい方に導くとは限らない。

 

背中で語る渡辺謙の演技を、是非劇場で観て欲しい。

 

 

東京 直人

東京で暮らす有馬は、誰が見ても理想的な人物だ。

都内の広いインテリアに凝った部屋に住み、ブランドものと一目で分かる上質なスーツを着こなし、自信にあふれいつも堂々としている。

ゲイパーティーに一緒に行ける仲間もいて、ルックスだって恵まれてる。

一見誰もが羨む人生を謳歌しているように見えるが、もう先が長くない母の横で出会い系サイトを閲覧するほどには孤独だ。

 

話は逸れるが、映画ではこういう表現をしてほしい。

例えば、どこか洒落た飲食店でゲイ仲間に「俺もさみしい時あるよ」と言葉で有馬の孤独を表現されても「いやいやめっちゃ楽しそうじゃないですか」としか思えない。

言葉で主人公の状況や心情を説明する映画やドラマを見かける度、なぜ言葉を主体とした表現である小説や詩を選択しないのか疑問に思う。

鑑賞者の読解力不足という背景もあるのかもしれないが、どんなにいいストーリーであっても、表現方法と媒体の不一致、小道具のリアリティのなさだけで冷めてしまう。

有馬のキッチンにあったケトルなんて劇中あってもなくても良い物だ。

けどそこに北欧風デザインのケトルを置くだけで、センスが良く、持ち物にこだわる有馬の人物面を見せることができる。

言葉で言ってしまう方がわかりやすいし、より多くの人に伝わるだろう。

けれど言葉以外の方法で説明できる表現方法で、言葉に頼ってしまうのはいかがなものかと最近よく思う。

 

有馬はハッテン場で直人と出会い、次第に心を開いていく。

休みとあらば外に出かけ常に刺激を求めていた有馬だったが、心許せる直人によって生活が変化していく。

そしてそれは有馬にとって幸福な生活でもあった。

 

しかし直人は身元不詳の他人だ。

いくら心を許したからといって、幸福と安全を天秤にかけないほど有馬は馬鹿じゃない。

その賢さが吉と出るか、凶と出るか。

 

 

沖縄 田中

沖縄に移住してきた高校生の泉は、現地の同じぐらいの年の男の子・辰哉と仲良くなる。

辰哉に連れて行ってもらった無人島・星の島探索中に、「田中」と名乗る男に会う。

転校や引越しなど、知り合いのいない土地に行かざるを得なかった経験がある人は、泉と自分を重ねるかもしれない。

知り合いが増えるにつれ、知らなかった土地に対しても安心感が芽生える。

 

田中はバックパッカーであり、いろんなところを旅してきたと言う。

高校生、自由に生きている大人への憧れが一番強い時期ではないだろうか。

憧れには、「自分の知らないことを知っている・きっとすごい経験をしている」という意味の「信頼」も含まれている。

底抜けに他人を信じられることが、眩しくて、うらやましくて、愚かだと笑いたくなるかもしれない。

徐々に深まっていくように見える3人の絆は、果たして何で結ばれているのか。

ピエロがお前を嘲笑う(Who Am I - No System Is Safe)

ある映画を元ネタにしたマインドファック・ムービー。

マインドファック・ムービーとは、見る人の予想を覆すドンデン返し映画のことだそうで、この映画をきっかけに知った言葉です。

 

とある映画感想ブログで、私の大好きな映画が元ネタになっていることを知ったのが鑑賞のきっかけ。

なので、この作品の肝ともいえるドンデン返しの部分は素直に楽しめませんでしたが、それでもおもしろかったです。

何がおもしろかったのか?

 

①元ネタ映画を知っている人も、最後は騙される

この映画ではドンデン返しが2回用意されています。

最初の1回は、元ネタ映画を知っている人は騙されません。

しかし最後のドンデン返しは、元ネタ映画を知っているからこそ騙される内容で、こちらの裏をかくよう練られています。

 

②元ネタ映画がおもっきし出てくる

数秒なので、知っている人じゃなければ気づきませんが、思いっきり出てきます。

しかも主人公の部屋に。

自分の好きなものが元ネタに使われていると「元ネタの方が優れている」と証明したくなるというか、反発したくなるものですが、劇中でここまでネタばらししていると好感を抱きます。

同じものに憧れ影響を受けた同士、とでもいうんでしょうか、そんな気持ちが芽生えます。

正直「それはどうなんだろうなぁ」と脚本の詰めの甘さが気になる場面もありますが、同じ映画ファンとしては許しちゃう!

あるもののCG映像や、一時停止して主人公のナレーションが入るところ、高速巻き戻しなど、技術面でも「あれと同じだ!」とすぐにわかるように編集されていて、最早潔いです。

元ネタがあの映画だと知らなくても、「もしかして、これ…」と気づいた人もかなり多かったのでは。

 

③サイバー空間の表現

サイバー空間というバーチャル空間を、満員電車のような映像で表現しており、これが意外と合ってる。というか「サイバー空間ってこんな感じかも」と思わせる。

自分以外の乗客(ユーザー)がいることはわかるけど、素性まではわからない。

ラスボス的存在、MRXの衣装が安っぽいことや、ハッキングを行っているPC画面のリアリティのなさは気になってしまいました。

元ネタ映画の監督作で、ハッキングやSNSの映画がありましたが、あちらは実に上手く作っていたんだなということがわかります。

 

元ネタ映画のファンにも好感を抱かれる、なかなか希有な映画です。

最後に、元ネタばらしのシーンを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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石けん石けん!

リトル・ダンサー(Billy Elliot)

ネタバレあり。

 

ニンフォマニアック」のジェイミー・ベルがあまりにも美しかったのでレンタル。

彼の記念すべきデビュー作。

この時から顔変わってない!美少年!

 

踊ることが好きで、バレエダンサーを夢見る少年ビリーが、男女に対する価値観が古い村で、夢を叶えるため奮闘します。

「信じていれば夢は叶う」の王道パターンです。

悪く言っちゃえば、目新しさやリアリティな描写はありません。

王道パターンをなぞっているので、正直書くことといえばジェイミー・ベルの変わらぬ美貌ぐらいなのですが、気になったことが一つ。

女性の映し方というか、扱いがとても雑に感じました。

例えばビリーにダンスを教えてくれて、受験にも協力的だった先生。

ビリーの夢に反対していた父と兄を説得してくれた先生が、ビリーの初舞台には来なかったとは考えられません。

おまけにビリーのダンサー名門校受験に尽力してくれたのに、合格と聞いても別段嬉しそうでもなく、それっきり出て来なくなります。

ビリーに「負け犬」と言われたことを根に持っているとも考えられますが、あんなに目にかけていた教え子の晴れ舞台を観に行かないのは腑に落ちません。

さらにその先生の娘であり、ビリーに想いを寄せていた女の子なんて、合格すらビリーの口から聞くことなく、出なくなっちゃいました。

あの年の子どもにセックスを語らせておいて、この扱いはちょっと納得いきません。

果たして登場させる意味があったのか?

ビリーの初恋を表現するためとも思えますが、ちょっとなぁ…。

 

ビリーの初舞台を観に来たのは父と兄、ゲイでビリーに好意を寄せていた男の子のみ。

もしかして、監督女嫌い?なんて邪推するぐらい。

監督はスティーブン・ダルドリー。

同監督の「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」「トラッシュ!」は鑑賞済みですが、これら2本の映画ではそんなに女性の扱いが気にならなかったので、特別そういうわけじゃなさそう。

 

あとこれはどうしようもないのを承知で書きますが、数年後ビリーが成長しすぎてて、最初誰かわかりませんでした。

父と兄はわりとそのままだったので、数年後のシーンであることに気づけませんでした。

時間の経過を人物で表現するのは私が想像するよりはるかに難しいのでしょうが、父と兄のメイクをなんとかすればよかったのでは?なんて偉そうに思っちゃいました。

 

バレエダンサーになる映画ですが、なぜか多用されているTレックス

なぜこの選曲なんだろう?

オープニングで「Get It On」流れたときはテンション上がったけど。

いろいろ首をひねった映画でしたが、調べるほどではありませんでした。

 

いろいろ書いたけど、ジェイミー・ベルの美しさは格別でした。

ニンフォマニアック Vol.2(Nymphomaniac Vol.2)

引き続き、ネタバレあり。

 

第6章 東方教会西方教会(サイレント・ダック)

性感を得られなくなってもジェロームとセックスに励むジョー

あれだけ通ってきた男たちも通わなくなり、ジョーの相手はジェロームだけになります。

窓の外に、Fが乗っていた中古の赤い車がないのを見た時、ジョーはやはり寂しかったのでしょうか。

そんな中ジョーは妊娠、性感を取り戻せることを期待し帝王切開で出産しますが、相変わらずオーガズムは得られないまま。

限界を感じたジェロームはとうとう「他の男ともセックスしろ」とジョーに切り出します。

同監督の「奇跡の海」を思わせます。

Vol.1でもジョーは、ジェロームが動かせなかったモペットのキャブレターを動かしたり、縦列駐車を華麗にこなしました。

いくらジョーが度を超えた色情狂だからといって、性的に満足させられないのは男のプライドずたずただったでしょう。

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当然一緒にいるのは堪え難く、ジェロームは家を空けるようになります。

 

さてこの時ジョーは、初めてオーガズムを得た時の話をします。

12歳の遠足の時、体が宙に浮かび性器に触れることなくオーガズムを得たというびっくり仰天な話です。

その時自分の両隣に女が2人いたというのですが、これが歴史上最も悪名高い色情狂と大淫婦という信じがたい話です。

セリグマンをからかおうとして作り話をした可能性も考えられます。

ですがジョーの性格からすれば、キリストを冒涜したいのならホラ話などせずストレートに侮辱したことでしょう。

お話を盛り上げるためのホラ話という可能性は捨てきれませんが。

 

セリグマンとジョーの会話は相変わらず噛み合わず、性とは関係のないところで一人盛り上がるセリグマンが実は童貞であることが判明します。

これがモテない人の会話かー、なんて妙に納得。

セリグマンとジョーの会話は、女を感心させてベッドに誘い込もうとする滑稽な男と、それを見抜いてシラける女に見えなくもないです。

 

ジョーは自宅近くにたむろしていた黒人とのセックスを試みます。

いざホテルで黒人兄弟とことに及ぼうとするわけですが、言葉が通じずコミュニケーションがとれません。

ホテルの密室で女1人に男が2人、危険極まりない状況ですが、これもなぜか笑えてしまいます。 

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兄弟は聞き慣れない言葉で喋り、字幕も出ないのでなにを喋っているのかはわかりませんが、どうやら「どっちの穴にいれるか」でもめてるようです。

ちっとも行為が進まず、冷めたジョーはこっそり帰宅。

この時ジョーは黒人兄弟を「ニグロ」と言います。

セリグマンはそのことを咎めますが「言葉を規制してなんになるの」と反論、結局セリグマンは「ニグロ」と言ってしまいます。

ジョーは筋の通った考え方をしており、観ているこちらも納得させられてしまいます。

 きれいごとを正論でバッサリ切るのはなかなか勇気ある行動です。 

ジョーが欲望第一に行動する自己中であるにも関わらず、嫌いになれない、むしろ好感が持てるのはこういうところかと。

 

黒人兄弟では満足できなかったジョーは次なる男、Kの元へ向かいます。

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Kは薄暗いビルの、恐らく地下で女性相手に「暴力的」なことをしていると噂されており、謎の多い人物です。

ジョーが待合室に着くと、身なりのいい女性たちが既に座って静かに待っていました。

信頼できる筋から紹介された女性のみ通えるシステムなのでしょう。

ガラスのドアの向こうから現れたKは初めて見るジョーに「帰れ」と言いますが、なんとしても性感を取り戻したいジョー、帰りません。

結局Kは根負けし、「ムチを買って夜中にまた来い」と言います。

「子どもがいるから夜は来れない」とジョーは訴えますが、Kはガラスのドアの向こうへ消えてしまいます。

 

この時のジョーのメイクなんですが、左目だけ濃く見えて「時計じかけのオレンジ」のアレックスを彷彿とさせるんですよね。

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レックスが夜な夜な片目につけまつげをつけ、自分の欲望を爆発させる「超暴力」の旅へ出たことを引用しているように思えるのですが、深読みしすぎでしょうか。

Vol.1でジョーとBが電車に乗った際のBGMが「イージー・ライダー」の主題歌、Born To Be Wildでしたし、昔の映画からの引用とも取れる箇所があって飽きません。

 

ベビーシッターを雇い、Kの元へ通うジョー

性行為はせず、行為を中断させるセーフワードも存在しないガラスのドアの向こう、未知なる性の世界へ歩を進めます。

部屋に通されたジョーは、身動きできないようガムテープで拘束され、ソファーに縛り付けられます。

おびえるジョーに「大丈夫」「気を楽にして」とやさしく声をかけるK、プロのサディストです、ちょっとときめきます。

だってカッコイイんだもん。

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スピンオフ作品「サディスティック」をぜひとも制作していただきたい。

 

未知の痛みへの期待と恐怖が性感となり、徐々にセクシュアリティを取り戻していくジョー

ベビーシッターが約束通りの時間に来なくとも、子どもを一人家に置いていくようになります。

 

子どもを置いていくことにためらい、待合室でも時計を何度も確認し、家に帰ってきて無事であることを確かめ泣いていることから、愛情があったことは間違いありません。

人並み外れた欲望さえなければ、ジョーは幸せな人生をおくれたはずです。

欲望によって周りを不幸にしているように見えますが、実は一番の被害者はジョー自身です。

 

そしてある夜、子どもがベランダから転落しそうになります。

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言わずもがな、同監督の「アンチクライスト」のパロディです。BGMも同じ。

トリアーファンにとってはたまらない映画ですね。

すんでのところでジェロームが帰宅しことなきをえますが、ジョーが夜な夜な家を空けていることがバレてしまいます。

そしてクリスマスの夜、「今夜家を出たら2度と僕と子どもに会えないと思え」とジェロームに告げられます。

しかしなによりも欲望を優先させるジョー、2人をおいてKの元へ向かいます。

夫と子どもを失ったジョーは、念願のオーガズムに達します。

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この映画を観ていて常々思うのは、出ている女優さんたちが本当に偉いです。

文字通りカメラの前で全部さらけ出します。

女性にとってこれほどリスクの高いことはありません。

いくら傑作であろうと、ここまでできる女優さんが果たして何人いるのか。

ステイシー・マーティンシャルロット・ゲンズブール、そしてこの後登場するP役ミア・ゴスにはいくら拍手をおくっても足りません。

 

この映画で不思議なのは、愛する相手と共にいる時は性感を失い、愛する相手を失うと性感が復活するところです。

愛する人がそばにいて「満たされた」状態になると性感を失うということなのでしょうか。

 

話終えたジョーは持っていたカップを壁に投げつけ「感傷的なのは大嫌い。嘘だから」と激高します。

ジョーが子どもに愛情をもっていたのは確かですが、そういったことをジョーは一言も口にしません。

愛情を持っていようといまいと、子どもと夫を捨てたことに変わりはなく、それはジョーにとって「愛していない」のと同義なのです。

そんなジョーにとって、過去の感情に浸る「感傷」はでたらめであり、インチキで、根拠のない行為なのでしょう。

やはり筋が通っているのですが、不器用ととれなくもありません。

 

第7章 鏡

性感を取り戻したジョーはまたセックスに耽る日々に戻ります。

毎晩違う男と過ごすと会社内で噂され、セックス依存症のセラピーに通うよう上司に命令されてしまいます。

おまけに性器からの出血というトラブルにも見舞われ、暗雲が立ちこめます。

 

この章で釈然としないことが2つあります。

1つは、ジョーは自らを「色情狂」とは名乗りますが、「セックス依存症」とは認めません。

セックス依存症は欠乏感から性を求めるけれど、私は欲望から求める」とVol.1でジョーは明言していました。

それを踏まえても「セックス依存症」と括られることに頑なに抵抗する理由はよくわかりません。

2つ目は性器からの出血です。

数えきれないほどのセックスとSMも経験したとはいえ、そこまでの無茶をしているようには見えませんでした。

「でもまぁ映画だから」と思ってましたが、どうもここらへんの事情はカットされてしまっているようです。

 

セラピーの先生に「身の回りから性を連想させる物を排除しなさい」と言われたジョーは部屋中の物を捨て、ビニールで覆います。

それこそ水道の蛇口から机の角にいたるまで、「そう言われればそう見えないこともないけど」というものばかりです。

しかしその甲斐あって?セックスをしない日々を送ることに成功したジョー

セラピーの集会に原稿まで持参し、発表します。

しかし、ふと見た鏡に幼い日の自分がこちらをじっと見つめているのに気づきます。

そしてジョーは原稿を破り捨て、「私は絶対にあんたたちなんかと違う。私は色情狂よ。自分を正当化するためのセックスなんかしない。自分の性器も欲望も大好き!」と宣言し立ち去ります。

カッコイイです。

 

恐らく鏡に映ったジョーは「社会に徹底的に反抗する自分」を表していたのではないでしょうか。

ジョーにとって社会は、偽善的で愛を美徳とするインチキ極まりない世界なのだと思います。

なぜか異常な欲望をもって生まれ、そのせいで社会になじめないジョーにとって、自らを「セックス依存症であり、性を排除する」選択をさせられることは、屈辱に近かったのでしょう。

とうとう社会を見捨て、裏社会へ足を踏み入れます。

 

第8章 銃

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裏社会に通じている男Lから借金取り立て業を任せられ、順調に仕事をこなすジョー

(ちなみにL役には「アンチ・クライスト」でS・ゲンズブールの夫役を演じたウィレム・デフォー

ある時Lから「跡継ぎが必要だ」と言われ、Pという女の子と接触するようもちかけられます。

Pは犯罪者の家庭で育った孤独な女の子で、言ってしまえば手なづけやすい子です。

偽善や嘘を嫌うジョーは断りますが、Lにそそのかされ、Pが所属しているバスケクラブの試合を見に行きます。

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右耳が変形していることを気にかけ、試合中も髪で隠そうとするP。同情を誘います。

ジョーがよく試合を見にきていることに気づいたPは、自分からジョーに話しかけます。

そのうち2人は親密になり、一緒に暮らし始めます。

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P役はこの映画が初出演のミア・ゴス。かわいいです。

生意気そうなのに従順そうに見えるときもあって、普通の女の子にはない不思議な魅力を持っています。

これからいろんな映画出るのかな、楽しみです。

 

孤独だった自分を拾ってくれたジョーに、Pは特別な感情を抱き始めます。

下半身の痛みが治まらず、セックスができないジョーも、同じぐらい孤独だったのでしょう。

ジョーもPに対して愛情を感じるようになります。

しかしもともと2人は「なにかあったときPがジョーの身代わりになるように」というLの計らいで出会いました。

なぜ突然自分の前に現れたのか、Pに聞かれたジョーは全て正直に話します。

 

嘘をついた方が自分の身を守れる状況でもジョーは嘘をつきません。

ジョーが忠実なのは自分の欲望に対してであり、利己的ではないのです。

自分の欲望を隠すことなく、きれいごとも言わず嘘もつかない筋の通った生き方をしているジョーに、憧れすら抱きそうになります。

 

力になりたいPは、ジョーの取り立てについてくるようになります。

どこからか手に入れた銃を相手に突きつけることも躊躇しません。

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Lの狙い通り、Pが忠実な犬になったように見えますが、自分を騙していたジョーを憎む気持ちがなかったとは思えません。

この後の行動から、いつかジョーに復讐しようと企んでいたと思われます。

 

ある日ジョーがPを連れ取り立てに向かった先は、なんとジェロームの家でした。

家の前で気後れしたジョーは「この仕事はあなたが1人でやってみるべきだわ」とPに任せ、家に戻ります。

Pはジョーに言われた通り無理のない返済計画をジェロームに提案し、支払いを数回に分けて行うことになりました。

そして最後の取り立ての日、Pはなかなか帰ってきません。

遂にジェロームの家に向かったジョーが目にしたものは、裸でジェロームといちゃつくPの姿でした。

Pとジェロームと同じ街にはいられないと家を飛び出したジョーは、導かれるように山へ。

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風に吹かれ、不格好に変形しながらもしっかり根を張っている木を目にし「この木のように生きたい」とジョーは願います。

木は崖を挟んだ向こう側に生えており、ジョーは決して触れることができません。

満たされない欲望を抱えたジョーが、やはり触れられない木のように生きたいと願うのは、とても象徴的で切ないです。

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そしてジョーは街へ戻り、ジェロームを殺すため銃を持って家を出ます。

セリグマンに「人が人を殺すのは自然なこと」と言いますが、展開が唐突です。

何を思ってジェロームを殺すことを思い立ったのか、経緯は話されませんが、Pを独占しようとしたのでしょうか。

 

いちゃつきながらPと路地を歩いてくるジェロームに引き金を引きますが、弾は出ません。

安全装置が外されてなかったのです。

ジェロームは何も言わず、ジョーを何度も殴ります。

そして倒れたジョーの目の前でPの性器を3回、肛門を5回突きます。

ジョーにとってこれほど屈辱的なことはなかったでしょう。

おまけにPに放尿されてしまいます。

そんな最悪な出来事の後で、セリグマンに拾われたのです。

 

ジョーの話を聞いたセリグマンは「安全装置の外し方を知っていたのに外すのを忘れていたのは、無意識下でジェロームを殺したくないと思っていたからだ。君は心の底では人間を讃えているんだ」と言います。

ジョーが話し終える頃にはすっかり朝になっていました。

セリグマンは夕日に多くを求めすぎたジョーに「君は与えられた以上に欲したんだ」と言いながら、自宅の窓から見えるわずかな朝日を見せます。

壁に反射した本当にわずかな光で、セリグマンの言っていることも的を得ているとは思えません。

でも美しいです。じんわり感動します。

朝日を見たジョーは、性を排除した人生をおくることを決意します。

そして唯一の友達セリグマンに「ありがとう」とお礼を言います。

眠るジョーを寝室に残し、部屋を出るセリグマン。

 

ここで終わればまぁまぁ後味さっぱりの、感動的な映画です。

ですが鬱エンドで有名なトリアー監督、いい意味で期待を裏切ってくれます。

 

ジョーが眠りについた頃、そっと寝室に入るセリグマン。

下には何も履いておらず性器丸出しです。

寝ているジョーになんとか挿入しようと試みますがうまくいかず、そうこうしているうちにジョーが目覚め、「やめて」と拳銃を手に取ります。

画面が暗転、セリグマンはジョーに「散々男とヤッたくせに」と言い放ちます。

ジョーは今度こそスライドを引いて安全装置を解除、発砲。

人が倒れ、急いで部屋を出る足音がしたところで映画は終わります。

 

「性を排除した人生をおくる」と決意した次の瞬間殺人を犯し、まともな人生をおくれなくなったジョー

欲望に振り回された女の話を聞き、これまで抑圧してきた欲望を満たそうとした瞬間女に殺されるセリグマン。

これ以上の皮肉はありません。

そしてこの映画にこれ以上のラストはないと思うのです。

ジョーセリグマンにお礼を言ったところで終わってしまったら、記憶に残る映画にはならなかったでしょう。

主人公のジョー同様、きれいごと一切なしのラストは一貫しています。

 

エンドロールで流れるS・ゲンズブールの「Hey,Joe」がすごくいいです。

元はジミ・ヘンドリックスの楽曲だそうです。

訳詞をネットで探したところ、不貞を犯した妻を夫が銃で撃ち殺す歌で、ぴったりですね。

歌詞には妻を撃ち殺した夫を誉め称えるところまであって、やはり性に関する男女の許容差は埋まらないことを思い知らされます。

元の楽曲は聴いたことないですが、S・ゲンズブールの囁くような歌声が聴いていて気持ちいいです。

ジョーの名前はこの曲からとったのかもしれません。

 

この映画の中で幸せになる人は一人もいません。

けれど観終えた後、なぜかスッキリした、晴れ晴れしい気持ちになります。

園子温の「冷たい熱帯魚」を観終えたときの爽快感と通じるものがあります。

きれいごとや常識という覆いを取っ払った後に見える人間の本性や欲は醜いのかもしれません。

しかしそれを見せられた時の快感は代え難いものがあります。

 

鬱展開で有名な監督ですが、笑いがところどころに散りばめられてて、必ずと言っていいほど毒を含んでいて監督ならではのコメディを呈しています。

監督の過去作もちょくちょく顔を覗かせて、映画本編とは関係のないところでも楽しませてくれます。

そしてきれいごとを残らず排除した映画でのみ得られる快感で締めくくるラスト。

間違いなくトリアー監督の最高傑作です。

ニンフォマニアック Vol.1(Nymphomaniac Vol.1)

ネタバレあり

 

2013年公開作品個人的ベスト3。

自らを色情狂と名乗る女、ジョーのこれまでの人生が語られます。

幼少期から50代に至るまでの話を聞けば、その人と長い時間共に生きてきた錯覚を覚えるのが常ですが、そうならない不思議な話です。

というのも、語り手のジョーは自分の人生で何が起こったかは話しますが、そのときの自分の感情はほとんどといっていいほど語りません(アゴタ・クリストフの「悪道日記」を彷彿とさせます)。

ジョーの考えや価値観を推測できるぐらいのヒントは与えられますが、断言するには根拠に乏しい。

脚本がものすごく練られています。

どこまでも深読みできて、何回観ても楽しめます。

しかしどうしても腑に落ちない部分があり、ぐぐってみたところ日本公開版ではカットされた箇所があるそうで。

私が観たのは日本版で、ノーカット版は未見。

カットされた部分に関しての言及はしていません。

 

Vol.1、Vol.2に分かれており、非常に長いですが全く退屈せずに観ることができます。

長いとどうも感想が書きにくいので、重要と思われるキーワードとそれについての考察、章ごとの感想と分けて書きます。 

恐らくこの映画の一番の楽しみ方は、劇中のジョーのセリフにあるように「お話しを楽しむ」ように観ることだと思います。

いくら深読みしたところでジョーを理解することは不可能ですし、ジョーを理解するための映画でもないからです。

真面目に分析したり考察したりなんてしたところでなんの意味も持たない、むしろ滑稽なだけです。

 

キーワード1:愛

・嫉妬をまじえた強い欲望

・不誠実

・イエスなのにノーと言うこと

劇中のジョーのセリフです。

ジョーはエロスについて「イエスと言うこと」と語っていることから、愛とエロスを対極なものとしてみていたのでしょう。

ジョーにとっての愛とエロスは以下のように書き表せます。

愛=欲望<感情

エロス=欲望>感情

 

キーワード2:偽善

・人間の特質

・正しいことを言う悪人を賞賛し、間違ったことを言う善人をあざ笑う

これも劇中のジョーのセリフです。

言葉より行動にその人の本質が表れると思っていることがうかがえます。

第3章「H夫人」で他人の家庭を意図せず破壊してしまったジョーは、「私の人生に影響はなかった。オムレツを作るには玉子を割らなきゃ」と涼しい顔で言ってのけます。

「人間生まれながらにしてみな罪深い」と考えているのではないでしょうか。

ジョーにとっての偽善とは「生まれながらにして人間は罪深いという事実から目を背け、ものを言うこと」なのだと思います。

 

キーワード3:夕日、向こう側の世界

予告編でも使われていたセリフ「私の唯一の罪は夕日に多くを求めすぎたことかもしれない」には続きがあります。

「夕日が地平線に沈む時、もっと壮麗な色を見せてほしいと」

この「地平線」と同じような意味をもつと思われる言葉が「向こう側の世界」です。

「冒険しなくちゃ。向こう側の世界で自分の人生を取り戻すために」とジョーは言います。

夕日、向こう側の世界、この2つの言葉の意味するところは「決してたどり着けないところ」だと思います。

ジョーにとって欲望が満たされることは、死をも意味していたのではないでしょうか。

「もっと」と求め続けるジョーは子どものようです。

ジョーが子どもと違うのは、満たされないと承知している点です。

そんなジョー役に、どこか少女らしさが残るシャルロット・ゲンズブール

これ以上この役にはまる女優さんはいないでしょう。

 

第1章 釣魚大全

路地に倒れていたジョーをセリグマンが発見し、自宅に連れて帰ります。

「何があった?」と聞くセリグマンに「自業自得よ」「私は悪い人間なの」と要領の得ない返答をするジョー。

「あなたには理解できっこないわ」と言ったジョーにセリグマンは「話せ」と促し、ジョーはこれまでの人生を語り始めます。

「理解できっこない」という言葉は、博識であるセリグマンを意図せず挑発したのでしょう。

この挑発があのラストに繋がったんじゃないでしょうか。

 

ジョーは自らの性器に2歳で気づき、刺激を与え快感を得られることを知ります。

友人Bとバスルームを水浸しにし、床に性器をこすりつける「カエルごっこ」に耽るエピソードでは、子役にどんな演技指導をしたのか、子役の親にはなんて説明したのか、非常に気になります。

 

ジョーがお父さんっ子であったエピソードがここで入ります。

父親は医者で、ジョーをよく散歩に連れて行っては木の話を聞かせてくれたこと、その話を聞くのが好きで、忘れたふりをしてお話しをせがんだことが語られます。

 

後に数えきれない男たちと関係を持つジョーにとっても、初体験は思い出深いものにしたかったのでしょう。

「イイな」と思える男Jに「処女を奪って」と頼みます。

しかし前戯もキスもなしで挿入され、性器3回、肛門を5回突かれて終わります。

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この3と5と合計数8を「屈辱的な数字」と語るジョーに、「フィボナッチ数だ!」と興奮するセリグマン。

なぜ3と5なのか、ただ単にセリグマンを興奮させる要素として選んだだけなのかと思ってましたが、8を横にすると∞、ジョーの限りない欲望の始まりとも考えられます。

「もう誰ともヤらない」と誓ったジョーですが、友人Bと列車に乗り「目的地に着くまでに一人でも多くヤった方が勝ち」というとんでもない遊びをします。

ジョーはBに勝つため、妻と子作りをするため急遽列車に乗ったSをフェラチオで射精させます。

Sは見た目からしてセックスの回数が限られている年齢であり、ジョーがSを射精させたことでS夫妻は子どもを授かれなかったかもしれません。

それを承知で、ジョーは「勝ちたい」という自分の欲望を優先させました。

自分の欲望を優先させたことは認めますが、罪悪感を感じたかどうかは口にしません。

この話を聞いたセリグマンは自分の好きな釣りと絡め「魚がつれない時、釣餌を必殺武器に変えるけど、君の必殺武器はフェラなんだね!」と言い出します。

このちぐはぐが笑えます。

「コイツ人の話聞いてんのか」という状況は、当事者はイライラしますが、端から見てる分には笑えることこの上ないです。

 

第2章 ジェローム

1章を語り終え、2章に入る前にジョーとセリグマンは互いに自己紹介します。

セリグマン」の名を聞き「バカみたい」と笑うジョー。失礼極まりないです。

しかし何回か観るうち「もしかしてジョーは宗教の知識があって、そのことを表してるのでは?」とも思うようになりました。

セリグマン」という名はユダヤの名で、「幸せな人」という意味が込められています。

なぜ笑ったのか理由はわかりませんが、ジョーから見たセリグマンは幸せそうに見えなかったのかもしれません。

ジョーに宗教の知識が備わっていることがなぜ引っかかるのか、Vol.2の感想で書きます。

 

Bと「会」を発足し、男漁りに耽るジョー。

「男とは1度きり、同じ男とは2度とヤらない」という会のルールを破り、Bはアレックスという男と恋に落ちます。

「セックスに必要な秘密の要素は愛よ」とBに囁かれ、失望したジョーは脱会。

ジョーは満たされない欲を常に抱えています。

その欲を満たすために必要なものをBは教えてくれたのですが、どこまでも反抗的なジョー、聞く耳を持ちませんでした。

 

ところで日本語には「恋」と「愛」という言葉があり、持つ意味も違います。

しかし英語で「恋に落ちる」はfall in love、「愛」はlove、同じloveという言葉を使います。

こういう違いは考え方に影響を与えると思うんですが、実際どうなんでしょ。

まぁ映画と関係のない話ですね。

 

成人し、仕事を求めて印刷会社のアシスタントに応募したジョー。

その会社の代表はなんと最悪の初体験の相手、ジェロームでした。

 「君はあの頃と変わらないな」と迫るジェロームをジョーはなぜか拒みます。

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なんとも思わない相手とは簡単にセックスするにも関わらず、他の男とは違う対応をしたのです。

やがてジェロームに恋をしていると気づいたジョーは、自分の気持ちを手紙にしたためますが時既に遅し、ジョーは別の女性と結婚し何も言わずにジョーの前から姿を消してしまいました。

失恋をしたジョーは電車に乗り、乗客とジェロームの似ている箇所を探し、頭の中でジェローム像を組み立てます。いわゆるジグソーパズルです。

そして「彼のことを心にとどめておくため」電車の中でオナニーします。

このジグソーパズル、失恋した人は経験あるんじゃないでしょうか。

街を歩いていて「あの人、髪型が似てるな」とか「そういえばああいう服着てたな」とか。

ジョーの欲望と行動は常軌を逸していますが、それ以外は特別変わったところはないのです。

 

第3章 H夫人

当時何人もの男と同時進行系で関係を持っていたジョー。

そろそろ自宅にAがやってくるのにHはなかなか帰ろうとしません。

既婚者であるHを帰らせるため「私のために家族を捨ててはくれないでしょ」と追い出します。

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しかしHは自分の荷物をまとめてジョーの家に戻ってきてしまいます。

おまけに妻子に跡をつけられていたと言う間抜けっぷり。

H夫人がジョーの家に上がり込み、子どもたちにこれからの人生について話して聞かせます。

文章にすると修羅場そのものですが、笑いどころが満載です。

というのも、ユマ・サーマンの演技が絶妙なんです。

悲惨すぎず、大げさすぎず、笑いに徹しているわけでもないのに吹き出してしまうんです。

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しかし状況が状況なだけにおおっぴらに笑うのもなんだか気が引ける、そんな居心地の悪い思いをさせられます。

そうこうしているうちにAがやってきてしまい、事態はさらに泥沼化。

事情を把握したH夫人は「あなたが孤独を楽しむ姿を見てみたいわ」と言います。

この話を聞いたセリグマンは「この時君はどう思った?不快だったのか?」と聞きますが、ジョーは答えません。

自分の欲望が他人を傷つけそれを防げないこと、結果罪悪感を感じたところで何の意味ももたないと承知していたのではないでしょうか。

ジョーがかたくなに自分の感情を語ろうとしないのは、セックスに感情を必要としていないこととも関係があると思います。

質問に答える代わりに「確かに孤独を感じたことはあった」と7歳の時に受けた手術の話をします。

手術を受ける前の心境について「くぐれないはずのゲートをたった1人でくぐる気がした」と語ります。

この「くぐれないはずのゲート」は上のキーワードで挙げた「夕日」「向こう側の世界」と同じような意味を持っているのかもしれません。

くぐれないはずのゲートの前に立っていることが孤独なら、ジョーの欲望は常に孤独とセットになっています。

 

第4章 せん妄

ジョーの大好きなお父さんが病気になり、入院します。

病状が悪化し、取り乱し混乱する父親の姿を目の当たりにしたジョーは、病院内で働く男とセックスに耽ります。

欲望からというより、逃避に見えます。

まだ普通に話せる状態の父親が「死は怖くない」と語ります。

「われわれが存在する時死は訪れず、死が訪れる時われわれは存在しない」

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この哲学者の言葉の「死」を「満足」に置き換えると、ジョーの欲望を言い表せます。

先ほど「ジョーにとって欲望が満たされることは、死をも意味していたのでは」と書いたのは、このセリフでそう直感したからです。

父親が亡くなり、死体の前でジョーは自分が濡れていることに気づきます。

「向こう側の世界」を近くに感じた肉体の反応でしょう。 

 

第5章 リトル・オルガン・スクール

4章の話が終わり、室内のテープレコーダーに気づいたジョー。

バッハのテープが入っていたことからセリグマンが「定旋律」について話し始めます。

この話についてはうろ覚えですが、基礎、メロディ、アクセントの3つのパートで楽曲のハーモニーが完成する、とかいう話だったかと。

この話に倣い、3人の男に絞ったジョーの話が始まります。

 

1人目はF。

約束の1時間も前に来てジョーが他の男と行為を終えるのを待つ、従順な男です。

花を毎回欠かさず持ってきたのでしょう、安心と安らぎを与えてくれたとジョーは言います。

2人目はG。

Fとは正反対の、野性味あふれる男です。

そして3人目はジェローム

ジェロームとは散歩中に偶然再会します。

当時ジョーは、仕事や男たちとの約束の合間をぬって散歩をしていました。

散歩について「私の人生を象徴している。単調で意味がない」と語ったことから、人生や生きることに対して悲観的な面が見えます。

「君とジェロームの再会は偶然にしてはできすぎてる」と話を遮るセリグマンに「お話しを楽しむのはどっち?」とジョー。

お話し上手なのは父親譲りでしょうか。

 

ジョーは「私は何人もの男と寝たけど、それらを性的経験の総称としてしか見ていない。1人の男と添い遂げたのと同じ」と言います。

大事なのはハーモニーであり、男たちはそれを奏でる楽器に過ぎないのです。 

安心感を与えてくれるF、男の魅力にあふれるG、他の男とは違う存在、ジェローム

この3人、女が男に求める要素が全て揃ってると言っても過言ではないと思います。

それでもジョーの欲望は満たされず、「私の穴を全て埋めて」とジェロームに言います。

このセリフは度々出てきます。

言う相手は毎回ジェロームです。

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満たされはしないけれど、まずまず幸福とも言える生活は、ジョーの性器が無感覚になったことで終わりを告げ、Vol.1の幕切れとなります。

ステイ・フレンズ (Friends with Benefits)

ネタバレあり。

 

ミラ・クニスがとにかくかわいい。

観終わった時には好きになっていた。

 

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この映画での役名はジェイミー。

 

序盤の、ジェイミーによる超駆け足ニューヨーク案内で、「ジェイミーはこのぐらいのスピードで生きてきたんだろうな」と思う。

ニューヨークは魅力あふれる街で、毎日退屈しなさそうだ。

そんな賑やかな街中ではしゃぎながら「どこにいても一人は一人よ」とジェイミー。

恐らく彼女がニューヨークに移ってきて学んだことなのだろう。

ニューヨーク案内が終わる頃にはジェイミーが自信にあふれ、気遣いができる大胆で魅力あふれる女性であることがよくわかる。

 

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映画全体がこのアップテンポな調子で進んでいく。

ジェイミーとディランが仲良くなるまであっという間、ジェイミーが次のデートの相手を見つけて親密になるまで、息つく暇もないぐらい。

だからこそ、ディランの実家でのセックスシーンで「あれ?」となる。

ブコメだから2人が恋に落ちるのは当たり前なんだけど、序盤のスポーツみたいなセックスと違って、恋人同士のセックスをじっくり見せられるもんだから、恥ずかしくなってしまった。

「緩急をつける」ってこういうことかな、と。見せ方が上手いです。

 

セフレという一見最低な関係から始まっているけど、実はかなり理想的な恋愛である。

気を遣わなくていい、自分をよく見せる必要もない相手と、素の状態でいるうち惹かれあう。

世間的に言う「長続きする恋愛」ではないでしょーか。

 

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まぁラブコメだから王道の展開ではあるんですが、この映画がおもしろいのは笑いがかなり散りばめられてるところ。

ジェイミーが「私信心深いの」とiPadで聖書アプリ(そんなもんあるのか!)を立ち上げ「セックスのみの関係を貫くことを誓います」と画面の上に手を重ねる突っ込みどころ満載のシーン。

すごく、“イマドキ”な若者だ。

エンドロールも、ジェイミーとディランの指がスマホを操作するようにスタッフの名前を画面に表示させていく。

骨格はラブコメだけど、細かい演出はかなり現代的。観てて飽きません。

 

DVD返却した時、なんともいえない淋しい気持ちになった。

気づかないうちにジェイミーとディランを好きになってたみたい。

 

気になった曲

・Such A Colorful World/Max&Simon

・Paradice Dreaming/Eric Paul

・Magic Carpet Ride/Steppenwolf

・Clothing Time/Semisonic

 

劇中、繰り返し流れるSemisonicのClothing Timeや、字幕では(下品すぎて?)訳されてないセリフについては映画評論家、町山智浩さんの解説を観るとより楽しめます。

 

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