陰口の弊害

もう随分前になるが一緒に働くのがしんどかった人がいる。

恐らくその人にとっても、私と働くのはしんどかったと思う。

そこを辞めてからは会っていないしこれから会うこともないだろう。連絡先も知らない。

なのになぜかときどき思い出して、あぁ…と嫌な気持ちになることがある。それもいい加減しんどいので、ここに書いて消化させようと思う。

 

まずその人の何が嫌だったかというと、以下の2点に尽きる。毎日聞かされる同じ職場に勤めている人の悪口と、絶対に自分が正しいという思い込みによるこちらの行動の監視と口出しである。

固定メンバーが出入りする環境で、陰口が言われていない所なんてごく僅かだろう。私はほとんど見たことがない。毎日顔を合わせていたらなにかしら思うところが出てくるし、「お互いの知り合い」という話題はまぁまぁ盛り上がる。わざわざ相手に言わずに不満を解消できる、平穏な解決方法とも言える。

しかし陰口には必ず弊害がついて回る。うっぷんを手軽に晴らせるメリットと天秤にかけても、後々弊害の方が大きく出るんじゃないかと思う。

もちろん私も陰口を叩いたことはある。数え切れないほどある。そんな私が偉そうに言えることじゃないのは百も承知だ。ただ今思い出してみても、陰口ばかりで話が盛り上がった相手との関係はすぐに終わったし、心を許せる相手にはならなかった。それに何より、陰口を叩いていた時の自分はさぞかし醜い表情をしていただろうなと思う。

 

その人は話しながら仕事をするのが好きなタイプだった。1つのことにしか集中できない私にとって話しながらの作業はなかなか辛いもので、その話題が陰口となるとさらにぐったりした。ちょっとしたものの言い方、作業手順の違い、誰でもしうる勘違いなど、陰口の内容はバラエティ豊かでとても細かかった。よくまぁそんなことを覚えているなと感心させられるぐらい細かかった。

もちろん他人のちょっとしたことにイラついたり傷ついたりといった経験は私にもあるから、気持ちはよくわかる。ただそれが会う度、一緒にいる時間ずっと聞かされるとその人への印象は自然と悪いものになってくる。その人のことを思い出す度「よく陰口叩いてたな〜」と思う。「ああいう人はどこへ行っても、何かしら不満を見つけては陰口を叩くんだろうな」とも。

その人自身は悪い人ではなかったし、頭の回転が速くて気が利く人だった。何気ない日常の一コマをおもしろおかしく話して笑わせてくれたこともあった。陰口さえ聞かされていなかったら憧れていたと思う。そのぐらい魅力的な人だった。それが陰口によって「思い出してもいい気持ちにならない会いたくない人」になってしまうのはもったいない。別に私にどう思われようが構わないだろうが、寂寞というのはこういう気持ちを指すのかもしれない。できれば知りたくなかった。

そしてその陰口によって「きっと私も言われてるだろうな」と思うようになった。つまらないミスをする度「誰かに言われる」と頭をよぎった。その人と働く時はいつも緊張していた。とても居心地がいいとは言えなかったし、その人と一緒に働く日は前日から憂鬱だった。

 

だが仕事場で重視されるのは、仕事ができるかできないかだ。その人は私とは比べ物にならないほど仕事を速くこなした。その仕事場で1番か2番というぐらい優秀だった。そのぐらいの人でも間違えることはあるし、人によって仕事のやり方や順序というのは違うものだ。他の人から見たら非効率に思えても、当人にとってはやりやすいということもある。よほどの影響を与えない限り各々のやり方でいいんじゃないかと私は思うのだが、その人はそうではなかった。仕事ができる故なのか、自分のやり方が正しいからと他人のやり方を認めることができなかった(ように見えた)。

今であれば「私はこっちの方がやりやすいので」と言えるのだが、当時の私にはできなかった。もめるのがめんどくさかったし、険悪な雰囲気になるのが怖かったのだ。細かいところまで口を出されるのが嫌いな私にとってこれが何よりキツかった。それほど私のやり方が目に余ったということなのかもしれない。アドバイスをしてくれていたのかもしれない。その可能性を考慮してもうっとうしいとしか思えなかったのには理由がある。

いくら優秀な人であっても、私のやり方がその人の目に余るのと同じように、他の人から見たら「それOKなの?」と思うようなやり方で平然と仕事をしていたりする。例え話だが「備品は大事にしてね!」と言っておきながら備品の上にのって作業していることがあった。目撃した時はドン引きした。そういう場面に遭遇する度、その人に口出しされても真面目に聞こうという気がどんどん削がれていった。説得力がなくなっていったのだ。

私もその人同様、そんなどうでもいいことをなんでしばらく経った今も思い出せるのかと言うと、その人が陰口を叩いていたからである。「あんなに陰口叩いてるけど、自分がしていることの方がよっぽどじゃん!」という衝撃が強かったのだ。陰口を叩くとは、自身の評価を下げつつハードルは上げるウルトラマゾヒスティックな行為なのだ。本当に良いことなんて何一つない。その人にとっても、周りにとっても。

陰口を叩くな、なんて言うつもりは毛頭ない。ただ陰口を叩く場所を選んでほしい。それが職場の人の陰口であれば、職場と無関係の所で言ってほしい。それこそTwitterとかいいんじゃないかな。Twitterやってない人はブログ開設して、こんな感じで吐き出すのもオススメだよ。

キャロル(Carol)

※少々ネタバレを含みます

 

ルーニー・マーラが好きだ。大好きだ。

ドラゴン・タトゥーの女」を観て以来彼女の虜だ。

彼女が出演すると知って「her 世界でひとつの彼女」を観に劇場まで足を運んだ。映画は「ラブプラス乙」の一言で済むものだったが、やっぱり彼女はかわいかった。高いチケット代は映画にではなく、ボブカットにした彼女に払ったようなものだ。

 

さて今回動画配信サービスで観た「キャロル」も申し分なくかわいかった。

彼女が演じたテレーズという女の子はあまり表情豊かなタイプではない。にも関わらず、彼女がどんな気持ちでいるかは不思議と伝わってくる。恋人のリチャードといてもあまり楽しそうではなく、話をしながら頭の中では別のことを考えていることも、職場でかぶらなければいけないサンタの帽子を馬鹿げていると思っていることも、なんとなく伝わってくる。とても正直なのだ。

ルーニー・マーラの演技力が真価を発揮するのは、キャロルを見つめる時だ。顔全体に僅かな緊張が走り、目が輝きだす。キャロルが何を考えどんな気持ちでいるのか、見極めようとするかのように。

もうね、健気。かわいい。抱きしめたい。

けれど彼女は自虐的なセリフを口にする。

 

「自分の食べるものさえ自分で決められない」

「自分がどうしたいかもわからないのに、全てのことに“イエス”と答えてきた」

 

確かに他人を勘違いさせてしまうような場面もあるが、彼女は一度も嘘をつかなかった。恋人との欧州旅行をキャンセルしてキャロルと旅に出ると決めた時も、恋人に正直に話した。ごまかすこともできたのに、キャロルに対する気持ちまで話した。

彼女が自分にとって大事なこと・大事でないことを判断し選択できるのは、自分の心に正直に生きているからだ。周りの大事な人はもちろん、大事でない人に対しても誠実だ。媚びているというのとは違う。自分を大事にしている人は、周りにいる人も大事にできるのだ。

「人は理由もなく人に惹かれる」というセリフも出てくる。もちろんそれも正解だし、キャロルとテレーズが惹かれ合う理由を解明したいわけでもない。

だがキャロルがテレーズの生き方と態度に惹かれたのは間違いない。終盤、彼女が自分らしく生きると決意できたのはテレーズと出会ったからだ。

 

映画全体の構成もいい。キャロルとテレーズの再会から始まって、2人の出会いから別れ、それを経て見せられる再会シーンはこちらまで緊張する。キャロルの誘いを断ってパーティに参加している間、テレーズがキャロルのことを考えていたことも充分すぎるほど伝わってくる。

再会時のルーニー・マーラの表情もいい。少し怒っていて、それを隠しきれていない仏頂面は彼女の若さを引き出している。テレーズの心境は、再会できた嬉しさと何も言わずに連絡を絶たれたことへの怒りと、相反する感情が同居した複雑なものだったろう。何もなかったかのように感じさせるキャロルの大人の余裕に苛立っていたかもしれない。感情に流されかけたものの、選択を誤らなかったのはテレーズが自分の心に正直に生きているからだ。

 

テレーズは間違いなく魅力的な女の子だ。

ドラゴン・タトゥーの女」のリスベットもとんでもなく魅力的だ。好きなヒロインダントツのNo.1だ。

果たしてルーニー・マーラ以外の女優が演じても、ここまで魅力的なキャラクターになっただろうか?単にルックスが私好みという点もあるとは思う。だがルックスだけで演じる役全てが魅力的になるとは思えない。さすがにそこまで面喰いじゃない(と信じたい)。

綺麗でかわいい女優さんなんて山ほどいるが、彼女は別格だ。見ているだけで幸せな気持ちになる。恋してるみたいだ。

記憶の中の「オリエント急行殺人事件」

公開されてからだいぶ日が経っているが「オリエント急行殺人事件」を観てきた。

小学生か中学生の時に読んだこの映画の原作は、その後の私の人生の行き先に深く関わっている。

そんな思い入れの深い作品を前日に予約したものの、交通機関の遅れのため映画館に着いたのは上映開始時間を20分以上過ぎてからだった。

もしかしたら序盤で後半に繋がる伏線があったかもしれない、そもそも私にとって大事なこの作品を途中から観ていいものだろうか、死ぬほど後悔することになるんじゃないかと映画館のロビーで5分ほど逡巡し、結局観ることにした(時間通り席に着いていた方々には申し訳ないことをした)。

 

容疑者全員にアリバイがある状況で、ポアロは消去法によって推理を進めていく。

当てはまらないものから一つずつ消していくこの消去法は、それまで私が読んでいた推理小説の、犯人に繋がる証拠や証言によって事件が解決する王道パターンとは違う道を辿っていて、非常に新鮮に映った。

こういうものごとの決め方があるのかと学んだ私は、何かを決めなければいけないけど決められない時、この方法を使おうと思った。

そしてその時は思っていたよりすぐやってきた。中学卒業後の進学先を、私は消去法で決めた。

 

私にとって「オリエント急行殺人事件」は消去法を教えてくれたいわば教科書であり、小説という枠におさめることができないほどのものだ。

そう記憶していたのだけど、映画では消去法の「しょ」の字も出てこなかった。

原作を読んだのは10年以上前だし、私の記憶が確かかと言われるとあまり自信がない。「消去法」を初めて聞いたのは数学の授業だったかもしれない。

原作を読み直してみなければそれはわからない。

けどもし違っていたらと考えると、この記憶のままでとどめておきたい気持ちの方が強い。

私には「自分の人生を自分で見つけたものによって進めてきた」という誇りがあって、それはこれまでの私を支えてきたしこれからの私にも必要なものだ。

それを崩したくないという気持ちと、真実を確かめたいという欲求の板挟みになるなんて思いもしなかった。

私にとって映画は、映像作品というより自分との関わりや価値観を再認識させてくれるツールとしての役割が強いのかもしれない。

 

終盤、ポアロが最初から事件の全貌を知っていたとしか思えない推理を披露している最中に思ったことは「期待しすぎて映画のチケットを無駄にしなくて良かった」だった。

映画版「オリエント急行殺人事件」は、登場人物が多いミステリー映画は推理以外の視点で観た方がいいという気づきをくれた。

こんなはずじゃなかったんだけどなぁ。

「良い人がいたら、結婚してほしいと思ってるよ」

ここ数日、結婚について考え始めた。

結婚から始まって、自分が望んでいるものとそれが手に入る可能性、最終的に生まれてこない方が良かったんじゃないかという結論に達した。まぁいつものことだ。

「結婚について考え始めた」なんて、書くとプロポーズでもされたみたいだが、そもそも私に恋人はいない。

きっかけは母親だ。ある新聞記事を指して彼女はねえねえと私に話しかけて来た。

「この女の人、独身で正規雇用じゃなくて実家に住んでるんだって。結婚してお子さんのいる親戚の家に行くと子どもたちに『おかえり』って言われるんだって」

独身で非正規雇用で実家暮らし。今の私にそっくり当てはまるし、あなたの未来だと言われてもあぁやっぱりと思う。だからと言って母親が指した新聞記事を読む気にもならず、ふぅんと生返事をした。

「あなたもこうなったりしてね〜」と無邪気に言う母親に、同じことを思っていたはずなのになぜかカチンときた。

その理由として一番納得できるのは「他人に未来を勝手に決められたくない」だった。私は自分に対する許容範囲は広いが、他人に対する許容範囲は恐ろしく狭い。ふと、母は私にどんな未来を期待しているのだろうと思った。

「じゃあどうなってほしいの?」そう母に問いかけた。

 

「そりゃあ、良い人がいたら、結婚してほしいと思ってるよ」

 

そう返された時、私は内心鼻で笑った。今時結婚って。

けどそのすぐ後で私の体は心と正反対の反応を見せた。涙が出てきたのだ。

慌てて見られないうちに自分の部屋に入って涙をぬぐった。何が起こったか自分でもわからなかった。

それから私は結婚について考えるようになった。

 

元々私には結婚願望がない。結婚したいと思ったことはあったけど、とても短い期間だったし、今思えばおとぎ話に憧れる子どもそのままだった。

少なくともここ数年は結婚したいと思ったことがない。結婚どころか恋愛からもグングン遠ざかり(遠ざかるどころか恋愛に近い時期すらなかった気がするが)、異性も同性もひっくるめた他人という存在から進んで距離を取るようになった。こんな状態で結婚なんてそれこそおとぎ話だ。

なのになぜ結婚についての話を振られて涙が出たのか。実は結婚したいと密かに思っているというのが一番盛り上がるだろうが、私の中で無視できないほど生々しい形を作っていたのは「親への負い目」だった。

結婚しないということは「うちの子は異性に結婚相手として選ばれなかった」という負い目を知らず知らずのうちに親に背負わせるのかもしれない。そう考えた時、私は親からの期待を一度でも裏切らなかったことがあっただろうかというパンドラの箱と寸分違わない疑問も抱えてしまった。

 

話は逸れるが、少し前に私が「他人に理解してほしい」という気持ちを抱えていることを他人に指摘された。うさん臭い占い師にみてもらったみたいだが、ある程度私の生い立ちやこれまで私の人生に起こった出来事を知っている人が言ったので信憑性はあるし、私自身そうだと認めざるを得なかった。

だが私にとって「他人からの理解」なんて一生得られないものであることも、変えることのできない事実なのだ。

例えば人生で辛かった出来事を打ち明けて相手から「わかるよ」と言われても、それは「あなたの気持ちを理解した」という意味ではない。「あなたの話を私の頭で翻訳・想像して、まるで自分のことのように感じられた」という意味でしかない。他人の頭で再生されるのは自分が感じた出来事そのままではなく、相手の経験や知識に依った別の人間の視点によるフィクションだ。それは「理解」からはほど遠い。

 

10代の頃は人と話したいことがいっぱいあった。好きな音楽、こないだ観た映画、心を震わせたセリフや歌詞。だが周りにそういう話をできる人は全くと言っていいほどいなかった。極たまにそういう話をできる人が現れた。私はその人と自分は理解し合えていると信じていた。今ではそれが幻想と願望が入り交じった錯覚だったとわかるし、わかってからは他人とそういう話をしたいと思わなくなっていった。他人と話すことに意味を見出だせなくなった。

理解してほしいと望みながら、それが決して手に入らないもどかしさを抱えたまま人生を終えるのだろうと覚悟している。というか諦めるほかない。

皮肉なのは、この他人からの理解の諦めの根っこにいるのが、他でもない母親であることだ。そして彼女は私にそうした根を植えつけたことをつゆほども知らない。

 

その母親に苦行としか思えない結婚をしてほしいと言われ、親の希望を叶えられないことで親に負い目を負わせ、私は自分に「親の期待を裏切り続けた親不孝者」のレッテルを貼らずにはいられなくなる。ほとんど呪いだ。望んでいないのにお互いの首を絞めあっている。こうなると現実逃避じみた考えしか浮かばなくなる。

結婚なんて制度、なければいいのに。

 

早いうちに家を出なきゃならない。

「仕事」に対する異常な厳しさと、それに対する違和感

「完璧な人間なんていない」なんて面と向かって誰かに言ったら、9割以上の確率で「そんなこと知ってるよ」と言われるだろう。

そのぐらい「人間は不完全な生き物」という事実は浸透しているのに、なぜか仕事となった途端完璧を求められる。

もちろん仕事の対価として金銭をもらうわけだから、きちんとやるのは当たり前だ。

けど仕事と対価のバランスがとても取れているとは思えないので、ちょっとここで吐き出す。

 

恐らくこの記事を読んで「コイツ仕事なめてるな」と思われたり、自分の仕事を否定されているようで不快な思いをする方もいらっしゃると思う。

少しでもそう思いそうな方は読まないでほしい。

と言いながら、社会の底辺を漂う負け組(アラサーフリーター)の戯れ言なので別になんの影響力もないと思う。

私がこの記事で言いたいのは、仕事をする上で求められるものと、得られるもの・失うもののバランスがあまりに崩れていることである。

決して仕事というものをなめているわけでも、誰かを傷つけたり不快な思いをさせようとして書いているのではない。

 

・仕事という大義名分はどこまで許されるのか?

・本当に必要な職業

・求められる能力と得られるもの/失うもののバランス

・理想的な世界

・それでも働く理由

 

・仕事という大義名分はどこまで許されるのか?

かなり前から時短アイテムが人気だ。

仕事で忙しくて時間が取れないから、仕事以外の時間を短くしよう!という発想はいいとして、中にはそこまでして仕事を優先しなきゃいけないのか?と思うこともある。

例えばお風呂。

仕事で疲れた体を癒す時間を短くし、翌日の仕事に備える…このサイクルに私はどうしても首を傾げてしまう。

食事もそうだ。

仕事から帰ってきて自炊する時間も体力もないから、スーパーの総菜や外食で済ませる。

本来ならもっと安く済ませられた食事代を、仕事で稼いだお金で払うのだ。

正社員として働いていた頃の私にとって、マッサージ代がこれにあたる。

デスクワークなのでどうしても肩と首が凝り、毎週末マッサージに通っていた。

決して充分ではないお給料からマッサージの回数券代を払う度、「このお金の使い方って、なんか違うよなぁ」と思ってはいたものの、突き詰めてものを考えることに使えるほど体力は余っていなかった。

平日は肩と首をバキバキに凝らせ、週末だけにマッサージしてもらってもどうせ次の日にはバキバキに凝るのだ。

こんな馬鹿馬鹿しいループもお金の使い方も、もう二度と経験したくない。

私の場合、どうひっくり返ったって生活>>>>>仕事であって、仕事をバリバリこなすより日々の生活を丁寧におくりたい。

「仕事だから」という理由で大抵のことが許されちゃうのも、なんだかなぁ。

「仕事ならしょうがないね」という風潮が「仕事を最優先しろ」という無言の圧力に化けてしまった、と思う。

 

・本当に必要な職業

そもそも私が仕事より生活を絶対優先させる理由として、「世の中本当に必要な職業って、ほんの数種類じゃないか?」と思っているからである。

今の私がしているアルバイト含め、なくなって世の中が回らなくなる仕事なんてほとんどないと思う。

ほんの少しのミスが人命に関わったり、人々の生活がダウンしてしまう仕事も限られている。

だがそれ以外の、人命や生活に直接影響を与えない仕事で些細なミスをする人に対して、他の仕事人は異常に厳しい。

そりゃあ同じミスを短期間で繰り返したり、言われたばかりのことを忘れていたりというのは問題があるし、イライラするのもわかる。

けどほんのちょっとしたミスなら、もう少しゆるく許してもいいんじゃないかなと思う場面をよく見かける。

冒頭でも述べたように、仕事はきちんとこなすべき、そうして当たり前なのだけど、それを理由にそこまで厳しくする必要性を感じられないのだ。

 

・求められる能力と得られるもの/失うもののバランス

冒頭の繰り返しになるが、 人間は完璧ではない。

そのことはよくわかっているはずなのに職場に着いた途端、完璧を求められる。

一度言われたことは全て覚え、言われた通りに業務をこなし、周りを見て必要であれば先回りしておく気遣いは最早社会人のマナーとして必要最低限の能力になっている。

これだけの働きぶりをフルタイムで求められ、得られる給料は生活にまぁ困らないけど海外旅行とかすぐに行けない額、というのがほとんどではないだろうか。

私の例で言えば、毎月の生活費+マッサージ代でカツカツになるぐらいの額で、貯金なんて全くと言っていいほどできなかった。

私はその給料と引き換えに膨大な自分の時間を失い、ちょっとした診断で引っかかる程度に健康も損なった。

何より精神状態が荒んで、仕事を始めてから辞めるまで「働くか死ぬか」という精神状態だった。

仕事が私に合っておらず楽しめなかったこと、仲いい人を職場に作れなかったこと(これはコミュ障の私が悪い)、給料の安さにとどめを刺され、わりとすぐに仕事を辞めた。

「石の上にも三年」なんてことわざがあるが、三年も我慢して得られるものがあるとは限らないと私は思っているし、実際前の仕事はもっと早いタイミングで辞めても良かったんじゃないかと未だに思う。

一言で言っちゃえば、みんなむちゃくちゃ莫大なエネルギーや時間を仕事につぎ込んでるんだから、もっと得られるものがデカくないとおかしくない?ってことである。

 

・理想的な世界

私が思い描く理想の世界はこんな感じだ。

まず職業を必要最低限なものに絞る。けど本当に必要最低限なものに絞ると娯楽がなくなってしまうので、娯楽も残す程度に。

働く人を必要最低限に絞った所で、働く人たちの給料をめちゃくちゃ上げる。

毎月ボーナスか!ってぐらい上げる。

そしてありとあらゆる面で優待する。だって働いているんですもの。

その一方で仕事=収入源を失った人たちはベーシックインカムでお金をもらう。

働いていたときよりちょっと少ないけど、生活はしていけるね、という額。

そうなったら世の中イライラしている人も減るだろうし、生活を大事にすることで精神的にゆとりをもって暮らしていけると思う。

マジでこうならないかな〜。

 

・それでも働く理由

そんなことを言いながらも私は働いている。バイトだけど。

一番の理由はお金だ。不労所得でもない限り、働かなければ稼げない。

けど仕事を探す時、給料だけを見ているかというとそうでもない。

仕事内容や職場の雰囲気、そこにいる人を必ず想像する。

せっかく働くなら楽しく働きたいし、あわよくば知恵とか技術とか身につけたいし、さらに欲を言えば従業員割引とかでオイシイ思いもしたい。

あと人の役に立ったり、感謝されたり必要とされるのが単純に嬉しいというのも大きい。

なんだかんだ、働くことでお金以外のメリットもしっかり享受しているのだ。

 

ただそれで週5日働けるかといわれるとノーなので、今こうやってふらふらしてるわけだが。

正社員=週5日フルタイムで働く、っていう図式が崩れたらいいのになぁ。

もう仕事はレジャー!ってぐらい精神的なゆとりを持って働ける時代が来ることを夢見て、明日のバイトに遅刻しないように寝る準備しよ。

強制される挨拶が好きじゃない

社会において必要不可欠とされている挨拶というものが昔から苦手だ。

この頃では嫌悪感さえ芽生え始めている。

この年末の時期は「今年はお世話になりました。来年もよろしくお願いします。よいお年を」と言うのがお決まりになっている。

1年という決して短くはない年月の区切りが必要なのはわかるが、そのお決まりの言葉を言うのが、ほんの少ししんどい。

年末の挨拶に限らず、お決まりの言葉を言うのが暗黙のルールとなっていて、そのルールを守らなければ「非常識」と見なされるのが、私にとって結構な負担なのである。

私は基本的に自分が思っていることしか言いたくないし、挨拶もそうだが世の中で常識・当たり前とされていることを忠実に守ることができない。

「何で今こんなことをしなきゃいけないんだ?」といちいち考えてしまう。

「そういうもんだから」の一言で納得できないのだ。

ここまで書いていて我ながら面倒くさいやつだなと思うが、もうそういう人間だからしょうがない。

ただそんな面倒くさいやつでも他人と関わらずに生きていくことは不可能なので、内心首を傾げながらもそれなりの行動はする。

(余談だがこの行動の根底にある精神を「社交性」というのなら社交性なんてクソくらえだと思う)

つい先日、仕事納めだったので退勤時間が近づく中「挨拶ってみんなにしていかなきゃいけないのか?偉い人だけでいいのか?」と悩みながら雑務を片付けていた。

 

前いた会社では退勤時間のベルが鳴ると一人一人挨拶をして回っていた。

新卒でその会社に入った私は「こうしなきゃいけないんだな」と思い、挨拶して回った。しんどかった。

そんな気遣いをせずにぶっちぎって無視して定時でさっさと帰っても良かったんじゃないかと今では思う。

多分私のように「しんどいな」と思いながら挨拶をしていた人もいるだろう。

それでも周りに合わせていたのは「そういう空気」があったからだ。

あの空気に逆らうのと、周りに合わせるしんどさを天秤にかけたら周りに合わせた方がまぁラクではある。

ただラクな方を選んだから負担がゼロになるというわけではなく、何かしらすり減っていく。

前の会社で私が身をもって経験したのはそういうことだった。

 

仕事納めの日、ふとそんなことを思い出した私は仕事を片付け定時にタイムカードを打刻した。

ドアの前で「お疲れ様です!みなさん、よいお年を!」といつもより大きめの声で挨拶してフロアを出た後「さすがに偉い人に直接挨拶しなかったのはまずかったか?」という思いがよぎったあたり、チキンで情けなかったが、ひとまずはこれで良かったんだと思う。

私が思っているほど周りは私のことを気にしていないし、以前と比べてしんどさは圧倒的に少なく、精神的にすり減ってもいない。

いい年が越せそうだな、と初めて思えた。

Radiohead「Creep」の切実さ

今さらRadioheadの「Creep」にハマっている。

トム・ヨークが女の子にフラれて作った曲」という話があるが、失恋より「美しい特別な人間になれないもどかしさ」に焦点をあてているように思う。

 

生まれながらに美しい人間というのが、ごく稀に存在する。

他人と自分を比べることがいかに無意味かわかっていても、いざ目の当たりにすると自分が無価値な人間にしか思えなくなる。

世界は美しい特別な人間とそうじゃない人間にハッキリ分かれている。

「あなたは世界に1人しかいないからそれだけで特別」なんてきれいごとでこの事実をひっくり返すことはできない。

 

個人的にトム・ヨークのルックスは最高だと思っている。それどころかド真ん中だ。

学歴もいいし、音楽の才能があることは世界が証明している。

しかし少し調べればわかるように、彼の人生は決して万人に羨ましがられるものではない。

ド真ん中と言っている私ですら、動画を見ていて一瞬真顔で引くことがあるぐらい動きが気持ち悪い。

そんな美しくない方の人間であるトム・ヨークが歌っているから、この曲は無視できない切実さを伴って人の心に届くのだ。

(というかそういう人間じゃなきゃこの曲は書けないのだけど)

何よりこの後ろ向きな曲によってバンドの知名度が上がった事実が、「美しくない方の人間であること」をより決定的にしているようで、同じ美しくない方の人間である私の胸を締め付けるのだ。