恋愛できなくていいですか

特定の異性と仲良くしていると周囲から「好き」と認識されることに心底うんざりする。

仲の良い人とそうでない人では態度や話し方が多少異なる。これが同性だと「仲良し」という認識になるのに、相手が異性になった途端恋愛感情を勝手に盛り込んでくる。ホントうっとうしい。

小中学生ならまだわかる。高校生もギリわかる。「好きなの?」「付き合ってるの?」と事実確認してくるのも正直うざったい。いい年した大人がこちらが否定しているのも聞かず好き勝手言うのも勘弁してほしい。「ガキで〜す☆」と自己紹介しているようなものだ。見てるこっちが恥ずかしいからやめてくれ。

こうなると仲の良い異性への接し方を変えるか、いい年したガキにキツく言う、のどちらかを選ぶことになる。

前者はいい年したガキに負けたみたいでおもしろくないし、後者はしんどい。他人に怒るという行為はエネルギーの消費と成果がつり合わない、文字通り「骨折り損」でしかない。エネルギーの強盗はやめていただきたい。

奇妙なことに、そうやって頼まれてもいないのに他人の事情に首を突っ込んでくる人は恋愛面での問題を抱えていることが多い。なぜ自分の問題ではなく他人の問題に焦点を合わせるのか。ボランティア精神は他の場面で発揮できるだろうに暇なのか?

まぁ自分が問題を抱えている時、同じように問題を抱えていたり、自分より上手くいっていない人を見ると安心感を得られるのは事実だ。それは大いにわかるが、そんな薄い安心感を得るために私を利用しないでくれ、お前の問題は何も解決しないぞ。

 

性別とか年齢とか関係なく仲良くなりたい人と仲良くなりたいのに、どこかでそういうことを意識している自分がいて、それを情けないともカッコ悪いとも思う。

あぁヤダヤダ。

自分の恋愛事情を話したいと思わない私にとって、そもそも恋愛感情がないところに恋愛を絡めてくるのは余計なお世話以外のなにものでもない。

高校生の時、バイト先で仲良くしていた異性について「お似合いだよね、付き合わないの?」と先輩に聞かれた。その度に「恋愛感情はない」と答えていたものの、度重なる追及に嫌気が差して「いい加減にして下さい」などわりとキツめに言ったこともある(目上の人、年上の人に対していつも無難な態度で接する私の、年上に怒った数少ない経験のうちの一つだ)。

こういうことを聞かれる度に「みんな恋愛好きだよなぁ」と感心する。他人の恋愛事情に全くといっていいほど興味がない私にとって、恋バナでキャッキャできることが不思議でしょうがない。

なんだかんだ恋愛至上主義の現代で私が息苦しさを覚えるのはこういうところなんだろうな。恋愛に関わろうとしないだけで「変な人」「半人前」扱いされる風潮はなんなんだろう。

恋愛に夢を見ることも、恋愛のない人生は無意味とされていることも、「恋愛」が人間性を測る物差しになっていることも、心底理解できない。確かに恋愛はわかりやすく幸せにしてくれるし実際私の一番幸せな思い出は恋愛に関するものだけど、その経験がなかったら私の人生成り立ってないのかというと、それは言い過ぎだと思う。

私が恋愛をしないと決めたところで不幸になる異性なんていない。「恋愛できなくていいですか」なんてわざわざ聞くまでもない。いいに決まってる。恋愛できなくても肩身の狭い思いをせずに生きていける国があったらな〜なんてよく妄想してたけど、これからはそういう国に住んでいるつもりで生きていこう。本当はこんなこといちいち気にしてないで、言いたいやつには言わせておけばいいって余裕ぶっこいていたいんだけどな、ちょっと疲れた。

バカにされた時に考えていること

自慢じゃないがよく人になめられる。

いかにも気弱でイケてない地味人間なので、まぁわかるっちゃわかる。

実際何か言われても言い返したりしない。自分の感情を無視して努めて鈍感になったツケで、何か言おうとしても言葉が頭の中でまとまらない。言われて「あぁそうかもな」なんて思ったりもする。

自己主張もほとんどしない。人の視線を浴びるぐらいなら自分の存在を認識されない方がマシだ。

必要以上に人と争いたくないし、できるなら感情を乱高下させたくない。平穏に生きていきたい。平穏に生きていけるなら、多少後味悪くても言いたいことを飲みこむ方を選ぶ。そうしたら大抵のことは荒波をたてずに去っていく。

それで丸く収まっても、一方的に言われたことに対する悔しさと、もう言い返せないタイミングになってから湧いてくる言いたかったことを消化できないフラストレーションで私の心は徐々に歪み、元々美しくなかった性根が最早取り返しのつかないことになっていると昨日やっと自覚した。

何があったかというと、ときどき顔を合わせる人に「おや?なぜ今わざわざそんなことを言ったのかな?」ということを言われた。それを言った意図は本人にしかわからないし、私がどう考えようと推測の域を出ない。頭ではわかっているのに「いや、きっとバカにされた!」ともう一人の私が大声を張り上げて困った。きっとこれが“プライド”というやつの正体だろう。「せめてバカにされたことぐらいは気付きたい!」という謎の見栄を無視することができず良いことなんか一つもないとわかっているのに疑心暗鬼にまんまと囚われた。そうなるとあとはネガティブ一行通行、思い込みは加速してとどまることを知らない。

しかしふと思った。

 

「この人、私みたいな何の取り柄もない、勝ったところで別に手柄にならない人でさえバカにしなきゃ自尊心保てないんだろうな」

 

その瞬間相手に対するどろどろの感情がすぅ…っと音もなく引いていき、代わりに憐憫が文字通り波のように押し寄せてきた。

中学の国語の先生が「『かわいそう』という言葉は、相手を下に見る言葉だから使わない方がいい。使うとしても『不憫』と言いなさい」と言っていたのを思い出した。当時も今も完全に理解している自信はないけど、妙に納得したのでよく覚えている。

相手に対する感情が100%の「かわいそう」になった瞬間、いよいよ私の性根も取り返しがつかないところまで歪んだなとハッとしたのである。まぁ世の中キレイごとだけじゃやっていけないし、頭の中は自由なんだからこの程度でめんどくさい感情がサッパリ引いてくれるならいいもんだ。

必要以上に自分の思っていることを口にしたり、他人を攻撃したり陰口叩く人の気持ちはやはりわからないしこれからもわかりたくない。そういう他人と自分は違う種類の人間だと線引きしているけど、他人を抱えた不満のはけ口にしているのは同じだし、表面に出しているだけあちらの方がなんとなく健全に思える。

今年の抱負として「自分の考えや気持ちを言語化し、相手に伝える」と掲げたものの、今年半分が終わった現時点、達成できているようには思えない。というかほぼ忘れていた。

自分の考えや気持ちを言語化するには「認識」という作業が必要になる。これが思った以上に難しくて、今自分は嬉しいのか、悔しいのか、よくわからない時の方がほとんどだ。

けど認識しなければ言語化もできなくて、言語化できなければ相手に伝えることもできない。言語化できたからといって伝わるわけじゃないけど。そうやって先回りの言い訳ばかり用意して、怠惰に生きてきたツケが私の性根を歪ませたんだなーと今思った。

気持ちを新たに頑張ろう。もう7月だし。 

意図的な食事量増加の理由

社会人になってから、食べられる量が学生時代の半分ほどになった。

理由は「少しでも自炊の負担と外食費を抑えるため」だった。

社会人に比べて時間に余裕があった学生時代の食事量は、実家暮らしの時とほぼ変わらなかった。むしろ一人暮らしを始めてメニューも味付けもなにもかも自分で決められる!という一人暮らしハイにかかって、めちゃくちゃ食べていた気がする。

問題は社会人になってからだ。

会社の近くに飲食店がなく、昼食の選択肢はうどん半分ほどの太さがある麺を「そば」と言い張る激マズ社食か弁当持参の二択に見せかけたほぼ一択。弁当作りも自炊も負担に感じるようになり、あることを思いついた。

 

「少量で満足するようになれば、自炊する時間・手間・お金を減らせる」

 

最初はしんどかったものの、朝はシリアル、昼はサンドイッチかおにぎり、夜は麺類(うどん1パックで済ませることが多かった)という食生活に私の満腹中枢は順応していった。そんな生活を数年続け、胃は順調に小さくなった。ここまでは狙い通りだったのだが、つい先日、飲食店で頼んだ一人前の定食をどうしても食べ切れず残してしまった。

「自分の横着さがめぐりめぐって食べ物を粗末にしてしまった」という罪悪感と同時に、一人前の定食すら完食できなくなった自分が小さく弱くなったように感じた。そういえば食事量が減る前と比べて元気ない気がするなぁとも思い、せめて一人前は食べ切れるようになると誓った。

そういうワケで先日から少しずつ食事の量を増やしている。今の職場の社食は健康的でおいしいメニューを安価で提供してくれるし、社外に出れば1年かかっても通い切れないぐらいの飲食店が並んでいる。食事量を増やすのに今の環境はうってつけだ。食べる量に伴って出費もかさむが、精神的・身体的健康のためならどうってことない。少食の方が健康的という意見もあるみたいだが、私の場合平均的な一人前がちょうどいいんだと思う。食事中「おいしいものを味わうのは幸せだなぁ」としみじみ思うようになったのがなによりの証拠だ。

食べる幸せを必要なだけ享受できることに「ありがてぇありがてぇ」と毎日心中で手のひらを合わせている。

 

完全な余談だけど、学生・社員のモチベーションを上げたいとお考えの方、学食・社食の質の向上から手をつけるのが一番効果が目覚ましいと思います。

涙の効能

他人から見たらなんてことないきっかけで泣きたくなることがある。

「泣きたいから」といってそこらへんでわーわー泣くわけにもいかないので、一旦こらえる。

実家を出る前は「一人暮らししたら家に帰って思いっきり泣けるんだろうな」と思っていた。そうやって人目をはばからず泣くことを、ちょっと楽しみにさえしていた。

実際に一人暮らしを始めてわかったのは、一人でいても思ったように泣けないということだった。泣きたいのをこらえて部屋に帰ってくると、なぜかすっと涙が引いていく。やらなければならない家事が常にあり、まずはそれを片付けるスイッチが自然に入った。そしてその深い根の部分には「自分が自分の生活を支えている状況で思いっきり泣いたら、それが土台から全て崩れてしまうんじゃないか」という恐怖があったように思う。理由はどうであれ、外ではもちろん実家でも一人きりの部屋でも、私は泣くことができなかった。

昨日久々に「泣きたい」と思った。同時に湧いた「どうせ帰っても思ったように泣けないだろうな」と諦め半分落胆半分の感情が冷静にさせてくれた。そして案の定、家に帰ってきても涙は出てきそうになかった。

風呂に入るために服を脱ぎながら泣こうと試みた。目はうるむものの、涙は落ちない。それならそれでいいのだが、こうやってうまく泣けないことが続くと、信じられないタイミングで涙が止まらなくなるのでこまめに出しておきたい。泣くために大げさな妄想を始めている自分に気づいてさらに泣きたくなったが、やはり涙は出ない。

「泣きたい」と思ったとき、本当はどうしたかったか、誰に何を言いたかったか、どうしてそういう感情になったのかを湯船の中で考えて、ようやく少し泣くことができた。泣きながら「悲」に近かった感情が「怒」へ変わっていくのも感じた。表に出すのが難しい感情でも、少しずつほどいていかないと雪だるま式に膨れていって、何が何だかわからなくなる。

結局泣いてもスッキリすることはなくて、録画しておいたホラー映画を観て寝た。こういう時は何を観ても真剣になれないので、苦手なホラーも観れるのだ。そうして目覚めた朝は、別にいつもと変わりない。

I Want To/Best Coast

今月に入ってから映画館で映画を2本観たというのに、一向に感想が書けない。

正確には書けないのではなく、書くのが怖いのだ。

社会人になってから積極的に文章を書かなくなったツケは日毎に増し、私の文章の芯みたいなものがなくなったことを直視するのが怖いのだ。

そもそもお前の文章に芯なんてあるのかよ、と自分でも思うけどあると思いたい。

しんどかった時、文章を書いて立ち直ってきたことに対するプライドだと思う。

他人への警戒心の高さと反比例するように、紙とパソコンにはいつだって絶大の信頼を置いている。「味方」と言うのが一番しっくりくるほど、その存在は心強い。

積極的に文章を書かなくなったことはその味方に対する裏切りと同義であり、そのことがいつも頭のどこかにひっかかっていまいち頭がしゃっきりしない。

文章を書くことはアウトプットでもあって、アウトプットしないと脳が情報過多に陥って新たな情報を吸収できない。

だからかここ数年の私の頭は、水がしみこまない穴の大きなスポンジの様相を呈している。

そんなALWAYS頭ぼーっと状態だからか、この頃Best Coastの音楽が心地いい。

ほどよい脱力感、女の子特有の哀愁とポップ感がクセになる。

明日まとめてアルバム借りてこようかなぁ。

明日はチークとリップも買わなきゃ美容院も予約しなきゃしばらくマスカラもしてなかったけど買おーかなー泡洗顔よりミルククレンジングのがいいって本当かなー、と頭の中は常時こんな感じである。

だからこないだオネエ系の方に「『私の肌、ここがこうだったらいいのに〜!』ってところ、ある?」と聞かれても何も出てこないのだ。

そういうと自分の肌に何の不満もないみたいだが、そんなことはない。ただそのオネエ系の方は「どうしても!絶対にこれをどうにかしたいの!っていうぐらいのものを教えて」と言った。私が答える様子を見て「絶対どうにかしたいとは思ってないでしょ?できたらいいな〜ぐらいでしょ?」と私の欲の無さを即座に見抜いた。

あるいは諦めているのかもしれない。欲が満たされない絶望を、先回りして防いでいるのかもしれない。なんとも未来のないクセだなぁと他人事のように思う。

だが収入が増えたタイミングで美容関係の出費がエゲツないことになっているのも事実で、ここ数週間でヘアアイロン、アイシャドウ、新しいスキンケア用品、パウダーファンデーション、メイクアップクリーム、メイクブラシととどまることを知らず、果てにはヘアカラーをしたい衝動に駆られている。おまけに明日はリップとチークを新調、今も新しいアイシャドウとマスカラの購入を検討している始末だ。

いくらなんでも金使い過ぎだろという呆れと、本当は綺麗になりたくてそのための出費を惜しまなくなった安心を同時に感じている。

ここからどうしたいか、具体的になればいいんだケド。

そんな悩んでる風なことを書いている今、一番感じているのは文章を書くことを「楽しい」と思える喜びである。まだまだ死んでない。

「私は表現者になれない」

久しぶりに風邪をひいた。数年ぶりかと思ったけど、数ヶ月ぶりだった。

昼過ぎから鼻水が止まらなくなり秒単位で加速するのどの痛み、悪寒とだるさと熱が徐々に襲いかかってきた帰り道はなかなかハードだった。

食欲も湧かず、シャワーを浴びて20時には布団に入ったものの、どんどん目が冴えるばかりなので眠くなるのを待つことにした。多分ブログなんてものはこういう時に書くんだと思う。

 

 

先日、人前で自分について話す機会があった。

人の視線を浴びることが好きでない私にとって苦痛としか思えない時間だったけど、いろいろ考えた末自分のことを偽らずに話すことにした。

当日原稿を書いている最中、過去の自分の行動の真意が少しずつ明らかになっていった。いざ人前で話し始めると、それを覆っていた霧がみるみる晴れていった。

 

「私は表現者になれない」

 

自然と口をついて出た言葉に、他人事のように「そうか私は表現者になれないのか」と思った。人前で話すことで言葉は真実味を持ち、骨と変わらないぐらいの強固さで私の中に植えつけられた。

それから数日経って、「われながらよく人前であんなに話したな」という自画自賛、話した内容、「私は表現者になれない」という言葉が自然と頭の中で繰り返されるようになった。その再現テープはやがて私の涙腺を刺激し始めた。私は表現者になれないのだ。

 

具体的なモデルはいないものの、気づいた時には「表現をすることでようやく生きてこれた」という人に憧れていた。

その一方で、私は表現をしなくても何不自由なく生きていける人間なのだと認めざるをえなかった。表現より生活が大事なのだ。そういう人間である以上、私は表現者になれない。

それをわかっていても、表現という分野で何かしら成し遂げなければならない。それが表現の世界に足を突っ込んだ者の宿命であって、そう簡単に足を洗える世界であってほしくないとも思う。

他人の目に私は愚かに映るかもしれない。ただ笑われて傷ついて終わるかもしれない。けれど最早、「成し遂げられる」と信じるしかない。ふてくされていても何も変わらない。自分で自分を奮い立たせなければならないのだ。地獄に突き落とされても自力で這い上がってカムバックを果たせるような、そんな強い人間にならなければならないのだ。なりたいものになれなくても。

紙の月

ここ最近、邦画をよく観るようになった。

洋画だと字幕ばかり読んでしまって肝心の映像にあまり集中できないという情けない理由もある。

正直邦画に対するイメージが「名作もあるけど9割マンガ原作の駄作」だったのだけど、全然そんなことない、おもしろそう!という映画をよく見かけるようになった。

今回の「紙の月」も期待以上のおもしろさだった。

 

 

 

主人公・梅澤梨花は自分に自信がない。他人から認められたい・必要とされたいと思っている。自尊心が決定的に欠けていて、なにをしても満たされない。

一見大人しそうで夫にも従順、ノーと言うことができない。だが他人に認められるためならあっさり顧客のお金に手をつけてしまう。

彼女が横領に走るときのノイズのような音も良かった。

「ちょっとぐらいいいよね」「バレないよね」

そんな言葉が頭に浮かんでいる時、血液はこんな音を立てながら体内を走っているのかもしれない。

把握できないほどの金額を使っても彼女は満たされない。彼女が欲しかったものはお金じゃないのだ。

 

大島優子の演技が自然で驚いた。見るからにイマドキでかわいくて、要領も良くしたたかな女の子の表情、リアクションをすんなり引き出していた。AKBを卒業してからあまり見ていない気がするが、他の役をどのように演じるのか興味が湧いた。

小林聡美の演技もよかった。

かもめ食堂」や化粧品のCMからのほほんとしたイメージを抱いていたが、自分にも他人にも厳しい役を頭のてっぺんからつま先まで演じきっていた。

正論を言うけれど偉ぶらず、仕事に対する姿勢もぶれず媚びは売らず、おかしいと思ったら相手が上司であれもの申す。

目は鋭く、刺々しさはないが周りを緊張させる口調に「カッコイイけど自分の上司だったらしんどいな〜…」なんて思うぐらいリアルだった。

そんな厳しい彼女は徹夜をしてみたいと言う。

「したことないの。翌日に響くから」

なんとも彼女らしい理由だ。同じく梨花も徹夜をしたことがないと言う。

終盤の梨花と隅の会話はとてもいい。人が本当に自由になれるのは頭の中だけだと思い知らせてくれる。生きている以上、何かしら縛られ制限される。幸せもいつかは必ず終わる。それが当たり前の世界なのだ。だが梨花はそんな世界に思い切り風穴を開けてくれる。その抵抗は清々しく、爽快だった。

 

エンディング・テーマも良い。曲名は「Femme Fatale」。 正に梨花のことだ。

映画の本編とは関係ないが、おぉ!と思った演出があったので書き記しておきたい。

終盤、隅が話している最中梨花が言葉をかぶせてくるシーンがある。隅は驚きながらも口の中でモゴモゴ言葉を続けるが聞き取れない。

セリフにセリフをかぶせる時、かぶせられた方が相手がかぶせてくる直前に不自然に言葉を切ることが少し前から気にかかっていた。実際にはかぶせられた後、少し言葉が続くはずだ。

こういう細かい演出がされている映画を観ると、嬉しくなる。